2011年3月25日金曜日

社交恐怖の精神分析的なアプローチ(13) もうやめる

今日で震災から二週間。長いようで短い時間だった。毎日の余震。日々状況が切迫しているかのような福島原発。まだ災害が終わった、という実感はない。余震のたびに「あ、これがもっとすごくなっていって、これが本震だったんだ、となるのかな。」などと考える。一回一回小さな「覚悟」を繰り返すようである。これを書いている現在も(夜8時36分)、地震速報が伝えられた。今日出会った患者さん達は皆すべて震災の影響を受けて不安や疲労感を深めているという印象を持った。この頃は診察が終わる際の挨拶は「余震に気をつけましょうね。」である。


Mとの治療で私が一つ心残りだったことがある。それはこの当時の私はかなり受身的な姿勢をもって彼に接していたということだ。私はもっぱらMの連想を聞き、それに対して言葉を挟むというかかわりを持った。「分析的にやろう」という意識が強かったように思う。それが本来のやり方だ、という気持ちもあった。でも私が「では始めましょう」と声をかけてからMが話し出すのを待つというスタイルを彼はあまり好んでいないということも感じていた。口下手の彼が話題を探しながら咳払いをしたり、居心地悪そうに足を組み直したり体の位地を変えるのを見ながら、このようなスタイルは彼は好まないんだろうな、と思い続けてきた。 それでも私は彼の言葉を待つことが多かった。それ以外の治療スタイルを知らなかったからだ。

今だったらどうだろうか?もう少しざっくばらんに色々なことが話せたと思う。それで彼の社交恐怖がどれほど良くなったかはわからない。しかし彼に必要以上に居心地の悪さを体験させることは控えるだろうと思う。社交恐怖について私が知っていること、体験したこと、自分自身の考えた工夫などについても伝えるかも知れない。
私はこのシリーズを今日でおしまいにするが、結局「対人恐怖の精神分析的なアプローチ」というのは一つの幻想という気がする。もちろん理想型としては存在するかも知れない。しかし個々の患者の悩みは千差万別、症状も、治療への反応も、薬の聞き方も全員が異なると言っていい。分析的なアプローチが有効か、それとも行動療法なのか、治療者の受身的な姿勢が有効なのか、それとも積極的な姿勢なのかも。一人ひとりの患者と当たってそのニーズを感じ取って、自分に出来うる限り提供していくこと以外に「治療法」は存在しない、というのが実感である。(おわり)