コレもいいかも |
昨日述べたように社交恐怖を精神分析的に位置づけたとはいえ、そこからすんなり治療方針が決まるというわけではない。分析的な方針に従った治療を受けても少しも症状が改善されないという場合もある。それはおそらく社交恐怖の持つ二重性が関係していると思われる。ここでの二重性とは、社交恐怖が症状を有する神経症という側面と、一種のパーソナリティ上の特徴および障害という側面を併せ持つということである。社交恐怖の発症にはさまざまなパターンがあるが、もともと他人の目にさらされると萎縮しやすく緊張しやすい、という性格的な素地があり、その上で顕著な対人緊張症状(赤面、声の震え、どもりなど)が出現することも多い。たとえばDSMで言えば、多くの社交恐怖の患者さんは、回避性人格傾向、ないしは回避性パーソナリティ障害を有する。
このような性格上の特徴については、森田療法の森田正馬画「ヒポコンドリー性基調」と呼んで論じている。精神分析で扱うのはこの性格的な基盤のほうであろうが、患者さん自身は症状に何よりも苦しんでいるということがある。そして症状自身についてはむしろ認知行動療法的なアプローチが必要とされるであろう。この両者の組み合わせが必要とされることになる。
さきほど精神分析的な方針に従った治療、とサラッと流したが、もちろんこれについては説明を要する。私が示した方針のとおり、社交恐怖はそこにある二つの分離した自己像の問題を扱うことが、私の言う分析的治療である。ただし従来古典的な精神分析においても、社交恐怖を扱う試みは多少はなされていた。その例を挙げるならば、たとえば半世紀前のオットー・フェニケル(1963)の例がある。その理論は本当にブンセキ的である。従来の精神分析では抑圧という障壁の左右にポジをネガに、ネガをポジに捉えるところがあるから社交恐怖的な心性の背後にあるのは、抑圧された露出的衝動ということになる。フェニケルは「舞台恐怖 stagefright」 (いわゆる「あがり症」)について、それが無意識的な露出願望および,それが引き起こす去勢不安とが原因になって生じるものとして説明した。(うーん、例によってわかりにくい!)舞台に立つ人は,自分の露出願望のままに振舞うよりは,そのような願望を持つことについて懲罰されることの方を選び,その場合聴衆は超自我ないし去勢者として機能し,そこに聴衆を前にした恐怖感が生まれる,という説明である。
この説によれば対人恐怖的な現象は幼児期の葛藤の再現であり,無意識的な欲動に対する防衛として生じるものとして理解されたのである。(実はここ、私の本「恥と自己愛の精神分析理論」の該当部分の丸写し。)この露出願望というのは一見極端に思えるであろうが、実は患者さんの持つ自己愛的な側面、自分をよく見せようという願望を捉えているという意味では全く的が外れているわけではないであろう。ただ対人恐怖の人をつかまえて、「あなたは実は(性的に)露出したい、目立ちたいという願望を抑えているから赤面するんですよ」といっても、理解が得られない可能性が高い。
そこで私が提唱する分析的な理解に立った治療は、どのようなものになるのだろうか?(続く)