2011年3月9日水曜日

社交恐怖の精神分析的なアプローチ(5)

社交恐怖への精神分析的なかかわりの話である。(まあ、そんな大げさなものでもないが。)もし精神分析のかかわりの本質が、治療関係の深まりとそこで生じる転移を重んじるという点にあるとしたら、社交恐怖の場合にはどのような転移を考えるべきか?一昨日は「対人恐怖転移」などという概念を持ち出したが、これを起こさせるのが治療の目的であると考えることは出来ない。対人恐怖症状ははある意味では関係が出来ていない時に最も顕著に表れるのだから。しかしそうではなくとも、治療関係が何らかの形で自己像の分極化(つまり理想自己と、恥ずべき自己の隔たり)を顕在化させ、その為に治療状況の中で扱うことのできるものとなるような治療関係を考えよう。私はそれは結局はコフートが言うところの「自己対象転移」に近い形になるのであろうと思う。つまり治療者に認められ、あるいは無視されたと感じることでその性質が動くような治療関係である。そこではコフート的な意味での自己愛の満足ないしはその破綻が疑似体験され、そこで両極化された自己像が顕在化することになる。 人は他者から認められ、その存在を確認してもらうことを常に望んでいる。そのニーズはあまりに日常的で、あまりに普遍的でありながら、あからさまに語ったり認めたりするには恥ずかしく、またウザッたがられるのがわかっているからそうしないだけである。あるいはそれを日常の対人関係の中で、表面に表さない形で陰で満たしていたりする。ケアをする側の人間が、ケアされる側からの感謝やねぎらいという形での自己愛的な満足を欲していたり、暗に要求したりする。それを得られないと、その失望体験から相手に見放されたと思ったり、相手を恨んだりする。
同様のことは対人恐怖を生みやすいような状況でも実は如実に体験される。駆け出しの芸人は、舞台に立った時の聴衆からのちょっとしたクスクス笑いに敏感に反応して「俺ってウケているかもしれない…」と思い、自分を「まんざらでもないのかも・・・」と感じ、スムーズな話芸を披露できるモードになるかもしれない。ところが目の端で居眠りしている聴衆を捉えると「俺の芸ってやはりつまらないんだ・・・・」と落ち込み、たちまち噛んでしまってその後はボロボロになってしまうかもしれない。相手の反応により自己像の在り方が反転する傾向にあり、それは治療者との関係でも顕著に生じることになる。
社交恐怖における治療関係とは、おそらく患者の基本的な自己愛のサポートが提供されることは前提条件と言えるであろう。その様な環境で、治療関係によりさまざまに動く患者の心境に焦点を当てた治療となるのだろう。それは基本的には支持的で、古典的な分析状況とはかなり異なるものとなるはずだ。