先週土曜日のNHKの「追跡A to Z」(2011年3月5日 放送 広がる “新しい心の病” ~混乱する精神科医療~ )も「どうだかなあー」という出来栄えだった。精神科の患者があまりに多くの薬物を処方されている、という問題についての「追跡」だったが、趣旨はわかる。指摘したい点もある程度妥当だと思うが、相変わらず「勧善懲悪」的だ。「善き」精神科医と「悪しき」精神科医が登場するが、本来どちらが正しくどちらが間違っていると決められない問題なのに、そこに白黒をつけようとしている。もちろんそうしないと番組が面白くならないのはわかっているが。
私はこの種の問題を取り上げる姿勢は、両者の言う事を聞いてみると、なるほど簡単には善悪を決められない複雑な問題なのだ・・・とレポーターがため息をつく、というような落とし方が一番妥当なのだと思う。少なくとも扱われている分野の専門家が見て、「どうだかなー」と思うような論じ方は、やはり問題なのである。私は真面目に精神科の診療をしているつもりだが、それでもすごく薬の数が多い患者さんがいる。たいていはほかの医師から引き継いだ患者さんだが、自分で処方薬の数を増やしていった患者さんも中に入る。引継ぎの段階で数が多くても、それで病状が安定している場合には特に大きくいじろうとはしない。不用意にひとつ抜いたら、「先生に代わってから眠れなくなりました!」という訴えを聞くこともたまにあるものだ。
番組で指摘されていた問題として、抗不安薬の複数の使用が挙げられた。確かに問題なのはよーくわかる。私もほかの医者の処方を見るとそのような印象を持つことが多い。しかし私の印象には特に米国の経験が大きく影響している。彼の地では、たとえ一種類の抗不安薬でも、定時薬(つまり、朝夕一錠ずつ、など)として処方されることにはすごい抵抗がある。人は日本人の10倍くらい簡単に依存症になってしまうという印象がある。(何しろ安定剤と似たような作用を及ぼすアルコールの中毒患者が、日本に比べて一桁違うのだから。)だから抗不安薬が3種類出ている場合には、患者さんに「これって、ビールと焼酎とワインを飲んでいるようなものですよ。」と説明して、合計量が多いことを指摘することが、それが3,4種にわたっていることの指摘に優先される。(つまり合計のアルコールの量が多いのは問題にするが、それがビールと焼酎とワインのちゃんぽんであることは第一番に問題にすることではない。ただし合計のアルコール使用量が多くなるひとつの原因は、何種類かのアルコールを飲むことにある、というのは、それはそれで確かなことである。)
またもうひとつこのNHKの番組の中で言われていた問題、つまりアメリカでは単剤使用の傾向が強いというのは確かにそうだが、そうではない場合も沢山ある。そのため最近では「多剤併用polypharmacyはよくないが複合的な薬物治療combination threapyはよい」(この言い方自体は、半分冗談めかしたものである。なぜなら結局複数の薬を使うという点では変わらないからだ。)などといいつつ、多くの種類の薬物の使用を認める傾向もあるくらいだ。
アメリカ人の精神科医が、たとえば抗精神病薬はリスパダールしか使わない、というのも何種類かの抗精神病薬の効き味の違いをあまり問題にしない、いわば味覚音痴的な側面があることは向こうにいて知ったことである。第一アメリカのやっていることは正しい、というのが気に食わない。(けっきょくコレか!)もちろん日本の精神科は薬を出しすぎの傾向がある、患者さんの症状に対応するうちにずるずると種類が増えていったというのは確かにそうだ。しかしマイナーの出しすぎを指摘するのだったら、不必要に抗精神病薬を出されてその副作用で生ける屍のようになっている患者さんのほうに目を向けて欲しかった・・・・・。
社交恐怖の続きであるが、例の「理想自己」と「恥ずべき自己」の分極および相克、というテーマで昨日は終わっていた。この分極についてひとついえるのは、この分極の幅が、その病理の深刻さにつながるということだ。昨日の図の、二つの「自己」の距離ということである。なぜなら恥多き人ほど、「自分はこんなになりたい!」と夢見ることが多く、それは現実とかなりかけ離れたものであることが多いからだ。また恥多き人ほど「自分はなんて駄目なんだ!」と思うときの下げ幅が尋常ではないのだ。「こんな駄目な人間は生きている資格がない」、とまで思ってしまう。傍目からは大したことではないのに。だからこそ「理想自己」は高く位置し、恥ずべき自分はとことん低く位置してしまい、両者の距離が大きくなるのだ。
ちなみに対人恐怖的ではない人の場合は、両者の距離はあまり開いていないといえる。だからスピーチにしても、プロのレポーターなどなら「自分はこんなもんだろう」というレベルがあり、それを特に超えることも、それが極端に裏切られることもない。こんなもんだろう、というレベルも特別高くはなく、だからこそ自分に対する期待値も大きくならず、したがってそれだけ失望も少ないということだ。プロのパフォーマーは自分がそこそこ自分たちがやれると思っているし、その姿をビデオで撮って再生して見直してみても、自分がイメージしていたものと全く異なる自分の姿をそこに見ることはない。つまり「理想自己」から「恥ずべき自己」への転落はおきにくいのだ。ところが対人恐怖傾向のある人間は、自分の姿を写真で見ることすら強烈な恥の感情が沸き起こるものである。それは自分がこうあって欲しい、こうであったことにしておこう、と思っていたイメージがどうしても理想自己に近づき、それが写真を見ることにより失望体験を生むということが常習化しているからだ。
「対人恐怖転移」??
ところで昨日の図式を見ると、まるで自分という枠組みの中だけで二つの自己像がくるくる入れ替わっているというイメージを与えるかもしれないが、実は非常に「対象関係論的」な現象のである。それはどういうことか?
たとえば一人で部屋で文章を音読していていて、対人恐怖症状で声が震えるということがあるだろうか?何かを録音しているような場合を除いては、そんなことは起きないだろう。対人恐怖症状が起きるためには、目の前に対象がいなくてはならないのである。対人恐怖症状は対人場面で生じる。たった一人の存在でも動揺を与え、声の震えやどもりを引き起こすことがあるのだ。その意味では両「自己」の分極は対象関係により大きく変化する。
では対人恐怖症状を引き起こしやすいような関係性はあるのか?たとえば「対人恐怖転移」などというものは考えられるのだろうか?そこが興味深いところなのだ。普通転移関係は治療関係の深まりとともに発展していくというところがあるが、「対人恐怖転移」は治療者がまだ見知らぬ、あるいは出会ったばかりの場合にはその転移はもっとも深刻となり、それから徐々に軽減していく類のものだ。治療関係が出来上がり、ラポールが形成されたころにはゼロに近くなってしまうかもしれない。なぜなら患者が緊張する最大の機会は、初対面の場合だからである。これは非常に面白い点であり、そもそも「対人恐怖転移」という概念に意味があるのか、という議論にもつながる。
しかしこの点に関しては異論もあろう。対人恐怖は「半見知り」でもっとも引き起こされやすいとも言われる。全くのアカの他人でも、非常に親しい身内の人でも起こしにくく、その中間のレベルの人、つまりちょっと知っている人、あまり話したことのないクラスメート、顔見知り程度の人たちを前にして起きやすいともいえる。しかしそれなら自分がこれから関係を作っていくという想定のもとに出会う治療者は、すでにこの「半見知り」のカテゴリーに入っているのかもしれないという考え方も成り立つ。