2011年2月25日金曜日

治療論 その22.治療者は「怒りの芽」を羅針盤に使う(3)

このテーマをもう少し続けるが、「怒りの芽」がなぜ大切かについては、私の個人的な体験を説明するとわかりやすくなるだろう。(このままだときっと誤解を生んだままである。)私のように「気弱」で優柔不断だと、人から何かを頼まれるとそれに流されやすい。限界を設けること、つまり「ここまでにしましょうね」と言うことはどちらかというと苦手で、普段はある種のきっかけが必要だ。そしてそれはある種の感情的な反応である。手短に言えば、相手に対して怒ってしまえばどんな切り方も出来てしまうのだ。知り合いと縁を切る、などという物騒なことは、若いころはいざ知らず最近では自分から仕掛けたことはほとんどないが、もしそうするきっかけがあるとしたら、相手の不誠実さに腹が立った時である。そうすると優柔不断な自分の人格が別人格に変わってしまう感じである。
でも逆にいえば、相手に不誠実さがないのに縁を切るということは普通は起きないということになる。もし知り合いの誰かが何かをきっかけにして世間から石もて追われる身になったら、むしろできるだけ援助したいという立場である。
私は人はいい方だから、何かを頼まれ、その人がまっすぐな人で、まっすぐな頼み方をしてきたら、私は一肌脱ぎましょう、という気になる。大抵は若干だが安請け合いの傾向すらあり、後で苦労したりする。ところが相手の態度や言動に不誠実さが感じられ、「え、それっておかしくない?」と思えてくると、その人にかかわっていることがむなしくなり、むしろ自分の方が大事、という感じになる。
もちろん相手の不誠実を感じるこちら側の自己欺瞞もあるだろう。だからあくまでも私が主観的にどう感じるかということが問題となっているのだ。そしてその際の怒りの源泉は、自己愛的なもの、セルフィッシュな感情だ。つまり相手に侵害された、時間を無駄にされた、利用されたという感覚である。これらにより生じる感情は、怒りそのものではないにしても、そのバリアントと理解している。
怒りないしは「怒りの芽」により相手を拒絶できると言ったが、実際にはそれらの感情に至る前に相手と距離を取り始めていることがむしろ多いかもしれない。ここで受けてしまうと「怒りの芽」がでてしまうなと感じると、最初から拒絶や限界設定を考えるという風にしている。でもやはり自分の(想像上の)感情を決め手に使っていることには変わりはない。
もちろん限界設定には、私自身のパーソナルスペースを必ずしも脅かさないものもある。しかしある行動や要求を許容することが、ある種の社会のルールや、物事の限度を破ることになると、それによる不快感は私の個人的な不快感とあまり変わらなくなって来る。
ここで改めて強調したいのは、「怒りの芽」は非常に主観的で、それ自身の正当性を客観的には証明できないようなものだということである。しかしそれが相手をフェアに扱う、あるいは相手のアンフェアさに付き合わない、不当な要求は聞かない、というある種普遍的な価値判断に使われるというところが興味ふかいのである。
私は法曹界のことは何も知らないが、おそらく裁判官などの仕事においても、最終的にどのような判決を下す際に頼るのは、おそらくこの個人的な感情なのだと思う。これはロボットにはできないことだ。ロボットは最終的な判決にいたるまでの思考や判断の道筋をアシストしてくれるに過ぎないであろう。感情という羅針盤を持たないからだ。