2011年2月24日木曜日

治療論 その22.治療者は「怒りの芽」を羅針盤に使う(2)

昨日の発言は明らかに説明不足だったと思うので、付け足し。
ある患者さんの治療時間の後に、治療者が待合室を通りがかった際に、その患者さんに呼び止められたとする。彼は治療者に尋ね忘れたことを思い出したので、ほんの1,2分だけ話したいという。治療者はそれにどう応じようかと迷った後に、次の二つの反応をする可能性がある。ひとつはそれに応じる場合。もうひとつは応じない場合。
ただし治療時間以外はいかなる接触も持たないということが規則や前提となっている治療の場合には、治療者が患者さんの呼びかけに応じて立ち止まって話をするということは論外かもしれない。そこで私が想定するのはごく一般的な治療状況であり、患者さんのリクエストに応じるかどうかがその治療者自身によってもバラつきが出てくるような状況であるとしよう。(もちろん1,2分の立ち話、というのでは応じられないという方針は常に決まっているという場合には、その状況を少し動かそう。たとえば30秒だけとか、イエス、ノーで答えられる程度の質問を投げかけられるとか。あるいはその程度の立場話には必ず応じる、という治療者の場合には、その時間を5分とか10分とかに代えて考えればいいかもしれない。とにかく治療者が十分に迷う余地があることを想定したいのだ。)
さてそのような状況で治療者が患者さんからのリクエストに応じずに「いや、この次のセッションでお聞きしましょう」と言い残して去るとしたら、それはどのような状況だろう?何が治療者にそう決めさせているのだろう?
当然治療者の頭には治療構造がある。治療構造を遵守するつもりはあっても、ある程度の柔軟性を持たせたいという気持ちは大方の治療者に共通していることだろう。それに治療者が守るべき治療構造として、その行動が事細かに規定されているわけではない以上(例えば治療室以外に接触をするのはどのような状況において許されるのか、など)、適切な判断をその場で下さなくてはならないことは沢山あるはずだ。 
昨日私が言いたかったのは、そのような際に判断の材料になるのは、治療者の感情的な反応である、ということなのだ。昨日は「怒りの芽」、ということを書いたが、それはそのひとつのプロトタイプといえる。1,2分の立ち話を請われたくらいでムカッとする治療者はいないかもしれない。でもそれも状況次第だ。それが治療の後に頻繁におき、そのことについて何度も治療中に話し合われ、「治療時間で扱えなかったことは、次のセッションまで持ち越しましょう」という約束事が出来ているとしたらどうだろう。治療者は「またか!」と思うかもしれない。そのときには患者さんに対して、何かそれまでの話し合いやそれに基づく約束を反故にされた感じ、治療者としての自分の存在を軽んじられた感じ、患者さんに利用されている感じなど、さまざまな気持ちが起きるかもしれない。もちろん実際の状況はそこまで煮詰まってはいないであろうし、その場合は治療者の感じる抵抗や一瞬の不快感はその「怒りの芽」が何倍にも薄まった感情かもしれない。それは面倒くさいという感じ、わずらわしい感じ、程度で済むかもしれない。そしてもちろん治療者はそれを顔には表さないであろう。「面倒くささの芽」「わずらわしさの芽」程度にとどめながら、患者さんのリクエストには応じない方向で対応する可能性が高くなる。
ところでここまでネガティブな「芽」を考えた以上、逆も考えなくてはならない。「うれしさの芽」、もありえるだろう。自分が患者さんから信用されていないのではないか、と疑心暗鬼になっている治療者は、セッションが終わっても話しかけてくる患者さんに喜んで応じたくなるかもしれない。これも感情的な反応であり、確実に何かを伝えていることになる。そしてそれも「芽」にとどめておくべき感情なのだろう。
このように考えると治療構造の順守や揺さぶり、破壊といった問題は、結局は治療者により自分への侵害、挑戦という形で感知され、扱われるということが分かる。治療者の感情的な反応はだから極めて重要な要素ということになる。