2011年2月23日水曜日

治療論 その22.治療者は「怒りの芽」を羅針盤に使う

怒りの問題は「気弱な精神科医・・・」の「汝怒るなかれ」の章とか、このブログの「怒らないこと」シリーズ(2010年8月後半から9月半ばまで)で扱ったことであるが、治療論にはあまり組み込んでいなかった。
時々聞く言葉。「先生に怒られて目が覚めました」(ある患者さんの言葉)とか「子供を叱らないでどうして教育ができようか?」(ある親のことば)とかを聞くと、思わず心が動かされそうになる。怒りには人を啓発したり導いたりする独特の効用があるのではないかと考えてしまう。が、やはりそれでも、怒りの表現はいらない、と思う。治療者にとっては、である。
いや、怒りがあってはいけないというのではない。怒りの表現は時には不可抗力だ。足を踏まれて「痛い!」というのに似ている。最初の瞬間の怒り、私が「怒りの芽」、と呼ぶ感情は、もうこれがなければ人間ではない、というくらいに自然なものだ。そうでないと痛覚のない人間のようになり、足を踏まれるがまま、人に小突かれるままになってしまい、たちまち痣だらけ、満身創痍になってしまうだろう。ただしその「痛い」を口にしない余裕があるのなら、その方がベターである場合が多いということだ。
人は怒りから逃れることは出来ない。人は否応なしにエゴイストであることを避けられないからだ。それがあまりに当然であるために、人は怒りを表現することを正当化する傾向にある。人が怒りを表現するのは、第一に、それが快楽的であり、第二に、それにより相手に復讐を果たすことができ、第三にその怒りを振り返る余裕がない(あるいは余裕を持とうとしない)からである。そして怒りを表現された側(つまり怒られた人)もそれにある程度免疫になっており、そのままやり過ごしたり、耐えたりして毎日を送っているのだ。
親や先生や指導者が、子供や生徒のために何かをするとき、その「何か」が全体として相手のためのものなら、その途中で腹が立ち、それを表現することも「コミ」というところがある。息子を剣道で鍛えようとする親は、子供の竹刀の持ち方や打ちこみの時の姿勢を怒鳴り付けて直そうとするかもしれない。それは怒っているように聞こえるだろうし、実際に怒ることもあるだろう。その度に父親は「待てよ、この怒りは私の何を表現しているのだろう?」などと考えている暇などないだろう。怒りを振り返ることにはエネルギーが必要だし、そのエネルギーをむしろ子供を鍛え上げることのために使うことはおそらく正当なことだろう。しかし怒りは必ずそこにエゴイズムが入り込むために、トラウマとして働く可能性がある。そこが問題だ。
私は治療者とは、自分の怒りを解毒するだけの精神的、時間的な余裕をもった職業だと規定したい。そこにはトラウマが生じる余地は、可能な限り回避しなくてはならないのだ。親にも、先生にも、スポーツトレーナーにもその余裕はおそらくない。しかし一日のうちの限られた時間を患者のために注ぐ治療者は、みずからの怒りを十分に検討する余裕がなくてはならない。するとその怒りは解毒されて、治療者は怒りの代わりに当惑や困惑を表現することになる。こちらの方は怒りの「正当な分解産物」として表現されてしかるべきであろうし、その事情はすでに「怒らないこと」シリーズのどこかで触れてある。
ただしこの治療論の文脈で強調しなくてはならないのは、怒りはシグナルとして、羅針盤としての意味を持つということである。患者さんがに対して限界設定が必要な場合、それを教えてくれるシグナルは、治療者の側の「怒りの芽」である。治療者が治療構造を引き締めなくてはならない時、「怒りの芽」を感じ取ることで、治療構造の綻びを感知するというわけだ。
たとえば患者さんが何回か連続してセッションに10分ほど遅れてきて、しかもそれについて振り返る様子のない時。治療者が自分を軽んじられた気持ちになり、「怒りの芽」が頭をもたげることが、彼の治療的な介入の引き金になるはずである。もちろんそこには個人差がある。患者の遅れに全然お構いなしで、何も感じない治療者の場合はどうか。それでもいいのだ。その治療者は別の仕方で構造を守ればいいだけの話である。
「治療者は怒るべからず、でも怒りをシグナルとして使え」、とは意味不明と思われるかもしれない。ひょっとしたら明日はもう少し補足をするかもしれない。