DIDの治療において、複数の交代人格の間の情報交換を図ることが大切であることは言うまでもない。DIDとは何人かの人が、同一の身体(脳も含めて)を共有しているようなものである。周囲の人はそのような事情は知らないのが普通であるから、交代人格どうしが少なくとも自分たちの中で、何を誰が行ったかを知っておくことは、周囲の人々との混乱を避けるためにもきわめて重要となる。
ここに述べた事情を、私がよく用いるマイクロバスの比喩に当てはめてみる。その時々で異なる運転手が運転台に座っていても、傍目には同じ姿と色をした一台のマイクロバスとしてしか映らないのが普通だろう。周囲は運転手は常に一人で、計画性を持って運転していると考える。だから運転手たちは、少なくとも自分の前に運転していた人が、どこに向かっていたか、どこでどのような荷物を積み下ろししたか、などのことは知っていないと不都合なのだ。
ただしこの異なる人格の間の情報交換を治療者が行うことには、複雑な事情が存在する。そもそも別人格に出会った治療者が、それを主人格に伝えていいのか、という疑問がまず起きるであろう。もちろん治療者がそれを促進するまでもなく、各人格の間の連絡は、自然発生的に、ないしは偶発的に行われているものだ。ある人はふと気がついたら自分の机の上が夜中に写真立てが粉々に割られていたことで、「誰か」がそれをしたことを知る。一人暮らしで、誰も侵入した形跡がないとすれば、そう考える以外にないからだ。あるいは自分が決して喫わないようなタバコを買っているということで、別人格の存在を認識する、という例もある。ノートに別の筆跡でメッセージが書かれていることで同様の理解にいたる、ということもよく聞く。だから治療者がそれを促進しても、なんら問題がないと思う向きもあるだろう。
しかし情報交換を治療者という第三者(?)が人為的に行うことには倫理上の問題が伴う。それぞれの人格には、プライバシーがあるからだ。自分の不注意で秘密が他人に知られることには我慢ができても、それを打ち明けた治療者が別人格に伝えたとなると、治療者との信頼関係に大きな意味を持ってしまうだろう。
この「交代人格の間のコミュニケーション」ということについてある程度結論めいたことを言うならば、以下のようになる。それを促進することは多くの場合、けっして悪くはないし、治療的な意味もたくさんあるに違いない。しかし人格の中には、ほかの人格について知りたく思わないという人はたくさんいる。あるいは無関心、という場合も少なくない。そこがこの問題を複雑にしているのだ。
異なる人格を基本的には別々の人間として理解するべきだということはすでに何度か述べた。再び同じたとえ話に戻るならば、彼らはマイクロバスで共同生活を送っている住人たちのようなものだ。しかし中の構造はきわめて複雑で、お互いがお互いをよく知らない。ある人格はその中の個別のブースに入っていることが多く、なかなかほかの住人に姿を現さない。ある人は責任感が強く、またある人はほとんど積極性を発揮しない。マイクロバス内のルールといえば、運転席がひとつしかなく、一度に誰か一人しかそこに座れないということくらいだ。そのような状況の中で、住人たちは互いの情報の交換に積極的になるだろうか?必ずしもそうではないだろう。
治療者はよく、DIDの方の日記に複数の筆跡を見出して、どうして当人はそれを不思議に思わないのだろうかと思う。しかしマイクロバスのホワイトボードに皆が勝手に予定を書き入れても、互いに関心を持ち合うということはあまりない。よほど自分のプライバシーを侵してきたり、自分のものを勝手に使ったりする同居人については特別の関心を払うであろうが、それ以外は他人にはあまり注意を向けないほうが普通だろう。基本的には「他人事」だからだ。