解離性障害を扱う専門家の間で、あるいはその患者さんにかかわる家族の間で、よく「暴力的な交代人格」の扱いをいかにすべきかが話題となる。確かにそのような交代人格が存在し、患者さんがコントロール不可能な状態になることはあるだろう。しかし私はすべてのDIDの患者さんの中に「暴力的な交代人格」が存在するかは疑わしいのではないかと思う。それはかつて自分に加害的な振る舞いをした誰かのイメージが取り込まれて交代人格としての体裁を獲得したものであり、しばしば畏れの対象となるのだろう。しかしその人格が実際的に外に現れて暴力を振るうということは、少なくともそれが起きる必然性については考えにくいのではないかと思われる。端的に言ってDID(解離性同一性障害)のひとつの特徴は、その人の高い感受性であり、それは人の痛みに対しても発揮される。他人に加害的な行為をした場合に、ほかの人格が自分の振る舞いとのあまりの齟齬に、内的なブレーキがかかることは十分あるだろう。 暴力的でコントロール不可能と思われる人格の非常に多くが、実際はとても苦痛で恐ろしい体験を担っている人格である場合は多い。その苦しみを今まさに味わっている状態で現れている時に、傍目には暴力的に見えるということはあるだろう。そのような人格が急に出てきて目が据わり、いきなりカッターナイフを持ち出して自分の腕を切りつけようとするかもしれない。そのような時に家族やパートナーが動転してカッターを取り上げようとすると、激しい抵抗にあう可能性が高い。その間にカッターがパートナーの体に触れて出血したりすると、「刃物沙汰」ということになり、何かその人格が凶暴な人のようなレッテルを貼られてしまうことは十分にあるだろう。しかしこの人格が本当に「暴力的」かどうかは非常に疑わしいのである。
純粋に加害的な暴力としばしば混同されるのが、「抵抗性の暴力resistive violence 」である。これはある行動を他者に制止されたときに発動するものだ。一般の社会人にもこれは容易に誘発される可能性がある。アルコールが少々入っているときなどはかなりその閾値が低くなる。よく地下鉄などでつまらない口論から小競り合いになり、暴力沙汰へと発展することがあるが、これも発端は他者への暴行というよりは、相手を制止する動作に対して半ば正当防衛的に体が反応したということが少なくないのだ。足を踏まれた男が、立ち去ろうとする相手に「ちょっと待ちたまえ」と肩をつかんだ際に、相手が大げさな動作でそれを振り払おうとする。これ自体は「抵抗性の暴力」の要素が大きいわけだが、相手はこれを純粋に加害的な暴力と理解し、「応戦」するということから殴り合いに発展する可能性もある。
この抵抗性の暴力が興味深いのは、おそらく人から不当な形で制止されたり、体の動きを封じられたとしたら、それが発揮されないほうが不自然だったり、病的だったりすることすらある点である。真の加害的な暴力に比べて、「抵抗性の暴力」はおそらく自己保存本能に根ざしている。どんなに穏やかな人格の人も、道を歩いている最中に乱暴な運転をする自転車に行く手を阻まれたらムッとするだろうし、大きな声を出したくなるだろう。
先ほどのリストカットを止められた人格にしてみれば、気持ちが高ぶった際にいつも自分で行っていたリストカットを制止されることで怒りが高じ、家族やパートナーともみ合いになることも十分にありうる。事情を知らない家族には、家族がいきなり暴力的になった、という印象を与える可能性が高いわけであるが、本人にしてみれば自分の当然の権利を奪われたことに正当な抗議をしたという気持ちが強いだろう。
交代人格が暴力人格に間違われるもうひとつのケースは、その人格が子供人格で、相手に対して力加減を知らない場合である。大柄で筋肉質の男性のDIDの患者さんが、いきなり子供人格にかわり、地団太を踏んで泣き喚いたとしたら、子供にとっては普通のしぐさでも周囲を圧倒するに違いない。交代人格と接触する際に、いざとなったら治療者が身体的な力で圧倒できるかどうかは、治療を安全に行う上での重要なファクターといえる。