すごいカロリー量だが、それは「中身」を食べた場合である |
このテーマについて一昨日書いたが、あれから少し考えが変わった。いやらしいほど合理性を追求するうちに、例えばソニーは テープレコーダーをカセットテープの大きさにしてしまったんだし、「普通はソコまでやらないだろ!」という努力をしていくうちにコンピューターは見る見るうちに小さくなり、USBメモリーは容量が32ギガまで大きくなり、定期入れ大の外付けハードディスクドライブの容量が500ギガ、なんてことになる。それが利便性を与えてくれるので私たちは当たり前のように毎日使うようになる。徹底した合理性がいやらしい、なんておかしい。ただしその合理性を発揮している人間が人を無視している時がいやらしいのだ。それなりの思慮深さをもっているだろうに元夫の悪口を平気で言う大竹しのぶは、サンマについてこんなことを言っていた。「取り放題のレストランなどに行くと、彼は一人でさっさとお皿に食べ物をもって席に運んで、食べ始めているの。」自分のことしか考えずに一直線にあいている席を目指す乗客のように、他の家族の存在を無視して食事を始めるサンマもはしたない。大竹しのぶが元夫の話をするとき、そのようなエピソードを語るのには理由がある。ちら、とでも他の人のことを考える姿勢、配慮は美しいし、その欠如はひどく興ざめなのである。
徹底した合理性は、それが公的な利益を追求するために向けられたなら、貴重な才能として歓迎すべきだろう。うちの神さんはおそらくかなり優秀な主婦業をこなしているが(これはほかの奥さんとは比べた事がないからわからないが)その合理性の徹底ぶりには感心する。冷蔵庫を開けて残っているものから、一瞬にして一番合理的な晩の献立が浮かんでくるらしい。しかしその割には夕方の6時過ぎには私はケータイのメールをチェックすることを忘れられない。時々連絡が入っているのだ。(「牛乳忘れた。コンビニでひとパックを買ってきて。」「●●屋でロールパン一袋お願い」)。
「神は細部に宿る」というが、うちの神さんは「時々細部が抜ける」のである。