2011年1月8日土曜日

解離に関する断章 その8  投影過剰か、取り入れ過剰か?

今、「続・解離性障害」という本を準備している。出版はまだ先になるだろう。その中で、2008年の「解離性障害」(岩崎学術出版社)で論じたことをまとめている。そこから新に何を考えたか、ということを示すためだ。2008年の同書には、まとめるならばこんなことを書いた。

「DID(解離性同一性障害)の病理をもつ多くの患者が訴えるのは、彼女たちが幼い頃から非常に敏感に母親の意図を感じ取り、それに合わせるようにして振舞ってきたということである。彼女たちは自分独自の感じ方、考え方を持たないわけではないにしても、母親のそれを自分のものとして取り入れることで、不自然にもいくつもの「自分」を心に宿すことになるのだ。そこで彼女たちがなぜ自己主張を行なったり、投影や外在化を用いて、自分の感じ方を押し付けてくる母親に対する反撃を行わないかは不明である。しかし少なくともそれが母親からの精神的な重圧だけでは説明できないことも事実である。」

「しかしどうして母親から示されたメッセージを取り入れることがストレスになるかを考えた場合、当然ながら娘の主観的な思考や感情があり、それが取り入れられたそれと矛盾するという現象が生じるのだろう。その意味ではベイトソンの示したダブルバインド状況そのものが実は解離性障害を生む危険性に関連していたということになる。この問題については、実は安 (1998) が生前指摘していたことでもある。」

うーん。いろいろ考えさせられる。DID出生じていることを、ボーダーラインと対比させることで論じる、ということを私はよくやるが、ここの図式はわれながらわかりやすいと思う。要は、投影projection 過剰か、取り入れ introjection 過剰か、ということになる。前者はボーダーライン。後者はDIDということになる。投影とは簡単に考えれば、人に耳の痛いことを言われて、その通りだと落ち込む代わりに、「あんたこそそうだ!」と言い返すことだ。これは実に大多数の人が行うことだ。精神科の研修医の頃だが、あるボーダーさんと思しき人に診断名を聞かれて、人格障害とはいえずにおずおずと「あなたは人格的な問題があると思います。」と言ってから、「しまった」と思った。案の定その患者さんからすかさず「そんなことを言う先生こそ人格的に問題があります!」といわれてしまった。これなどはいい例である。
ただ人からネガティブなことを言われて「あんたこそ●●だ」と言い返さず(投影せず)に「自分は●●だ」と引き受ける(取り入れる)ことの苦痛は、やはり何らかの形で処理されなくてはならない。自分にネガティブなレッテルを貼られて嬉しい人などいないからだ。そしてDIDの場合は、それは●●という性質を持った人格を内側に作ること、言うならば「自己の内部での投影」という複雑な規制ということになるだろう。うーん、話は複雑になってきた。