2011年1月7日金曜日

合理性ばかり考える人生はイヤラシイ

傍目には見苦しいのが、自己中心的な人間、ということを書いたが、一般的にある種の合理性を追求している人はある見方からすればとても見苦しい。Greedy はみにくさに繋がる。地下鉄で空いている席に向かって突進してくる人は情けない。ふたり分の席を占領してメールをチェックしているサラリーマンは、自分の世界に浸っていて、ケータイ画面の外に興味を示さない。これもある種の合理性の追求であるが、はた迷惑である可能性を顧慮しないのが見苦しい点なのだろう。
そして合理性に関しては、私自身も負けてはいない。時間に関しては特に貪欲だし、一つのところに留まらずに、すぐ次のことをやりたくなるのは、周囲の人間からは迷惑だろう。パーティなどお主催者に挨拶もせずに帰ってしまうのは失礼としかいいようがない。そしてこれは多動で何事にも集中できない、という私自身の問題も反映している。ゆっくり時間をかけて食事をしたり、飲み明かしたり、ということを楽しみにしている人には、私はまったく不適格で、相手を不快にすることしかないだろう。
それもあってか、私はその他の場面ではなるべく合理性を追求しないようにしている。金銭的なことにはルーズであり、着るのも、身につけるものに対するこだわりははっきり言ってない。食べ物にもうんちくはない(というより味がわからない)。
合理性とかこだわりとかの話になると出てくるのが、イチローくんの話題だろう。7年間昼は弓子夫人の手作りカレーしか食べない、などのこだわり。東京から大阪までひとつの歌を何度もエンドレスで聴き続けながら車を運転する、などのエピソードがあるが、だれも彼の車の同乗者にはなりたくないだろう。そんな話を聞くと、イチローもgreedy なひとりに数えたくなる。ただ彼の例を考えると、恐らく彼もほんの少しではあるが持っているに違いないアスペルガー傾向についても考慮せざるをえない。一定のパターンの繰り返しが安心感や快感を生む。周囲はそれに振り回され、付き合わされる。アスペルガー障害に顕著なのが、他者からどのように感じられるか、ということだとすると、彼らのこだわりがgreediness に繋がることは当然と言える。
合理性にこだわりつつ、それが周囲に迷惑をかけている事に気がついている人間は、すこしましだと思う。というより凛々しくさえある。こだわり続ける人が「あの人はブレない」「意思が強い」と評価されるときは、本人が周囲に与えている痛みが分かっている時だろう。そしてそのこだわりが実は自分を超えた全体にとっての合理性でもある時、人は彼を受け入れ、支持する。しかしそれもまた運の問題である。彼のこだわりは人々の心に訴えないかも知れない。その時は・・・・人にとって自分が迷惑で見苦しいことを認め、受け入れるしかないだろう。