セラピストは時々、患者さんの前でこんな思いに駆られる。「私は治療者として何をやっているのだろう?」患者さんが話を聞いてほしいと訴えかけ、その話に共感することで時間が過ぎていき、患者さんが次回のセッションを待ち望むという状況では、この考えはあまり起きないものである。患者さんが最初は持っていた治療への期待や情熱を失ったとき、あるいは最初から受診に消極的だったり、治療時間中ずっと黙っていたり、ため息を疲れたりしたとき、その思いが治療者の中に浮かぶのだ。治療は海図のない航海に似ている。いきなり自分が何をすべきか、治療がどこに向かっているかがわからなくなってしまうことがあるのだ。 そのような時、治療者が患者さんの治療動機、ニーズを考えることは重要であると思う。「結局セッションにより何を期待しているのだろう?」もう少し端的にいうと、「セッション中の治療者とのかかわりの中で、何に、どこに心地よさを感じているのだろうか?」治療者患者関係は特に安からぬ料金が絡む場合には非常にドライなものになりかねない。患者側は、ニーズが満たされなければ、一回一万円近い料金を支払う気になれないとしても、それはもっともなことだ。セラピーの一セッションごとにこのニーズが満たされれば、治療は継続していくと考えていい。逆にそれが起きていないとき、治療者は大海原でとつぜん無風状態に遭遇した帆船のような状態になるわけだ。
患者さんのニーズは実はさまざまである。とにかく一方的に吐き出すことを要求する人。セッション中ずっと目を見て言葉の一つ一つにうなずいてほしい人。あるいは患者さんの持ち込む質問に一つ一つ答えてほしい人。しかしその表面上のニーズとは別に、それらの根底にあるものとして、患者さんの「理解してもらう」ことの心地よさ、満足感がある、と考えるべきである。私がなぜそう考えるかといえば、これまでの経験上、患者さんの置かれた状況や、そのもつ精神疾患にかかわらず、「理解してもらう」ことが満足感を与えないということは思い出せないからだ。人が心を持つ、とはすなわち「理解される」事を望むことでもある。どんなに深刻な妄想に駆られていても、どれほど深刻な自閉症傾向を持とうとも、理解してもらえることが喜びや心地よさを生まないということは考えられない。
もちろん患者さんが被害妄想に駆られている場合には、「理解される」ことは「知られる、暴かれる」という感情をも生み、恐ろしい体験ともなりうる。しかし「理解されることが恐ろしさをも生む」ということのその苦しさそのものを「理解される」ことは、実はその人にとって安心感を生むはずである。アスペルガー障害の患者さんで、人の気持ちをまったく理解することができなくても、あるいはいかに特異で奇妙な思考パターンや妄想を持ち、それが人には理解しがたいということについては関心を払わない人でも、それだからこそ「理解される」ことを渇望するというところがある。なぜなら彼らはおそらくその独特の思考や行動パターンのために、これまで誰からも理解されずにさびしい思いをし、孤独感を抱え続けてきた可能性が高いからだ。少し逆説的な言い方をすればこうである。
「世の中でもっとも人から理解しがたい考えを持っている人こそ、人から理解してもらえることを強く希求しているということになるのだ。」