最近挿絵を描いているが、こんな下手な絵は実際に本に挿入して恥ずかしくないか、というおしかりを受けそうである。しかし心配はいらない。実は私は昔から本の挿絵をこんな感じで描いてみて、あとはプロに「清書」(清描??)してもらっている。それがものの見事に変身するのである。私が生まれてはじめて出版した本は、Herbert Strean というアメリカの分析家の書いた「ある精神分析家の告白」という本の翻訳書であった。もう20年も前の話である。その本の各章が印象深い患者さんのエピソードで綴られていて、興味をそそる題名が付いていた。「私を誘惑した患者」」などという題である。そのため章の扉ごとにそれ風のイラストをどうしても入れたくなった。もちろん著者のDr.Strean にも承諾を得たうえである。そこでここに掲載しているような絵を、同じように稚拙なタッチで描いて、ところどころ説明を入れた。そして、その頃たまたまある雑誌を読んでいて気に入ったタッチのイラストレーターに頼んで、「清書」してもらった。するとプロは私の死んでいた線に一本一本命を吹き込んでくれたのである。自分の絵が下手だと認めるのは嬉しくはないが、プロがどのようにうまく描くかを見るのは楽しみでもある。「リフォーム前、リフォーム後」、という感じか。
今日の治療論のテーマ。「患者さんの好きなようにしてもらう。」別にネガティブな意味でこういうわけではない。「もう、勝手にせい!」という印象を与えるといけないので断っておく。(ただしそのようなケースが全くないとはいえない場合もある。)
私の治療論が「失敗学」(畑村)と深く関連しているということは何度も述べたが、畑村先生は「人間は失敗からしか学べない」とまで言っている。私はそこまで言う勇気はないが、主要な学習は、自分が主体的に選び取った行動から生まれる、ということは確かであろうという考えを持つ。端的に、自分が人から言われて、薦められて行った行動であるならば、うまくいかない場合にでも他人事で済ませたり、責任を感じなくて済んだりするということが少なくなるからだ。(では人から勧められて成功した場合は?・・・・当然自分の手柄にするのが人間の性(さが)である。)
何度も何度も言うようだが、人は簡単には変わらないものである。普通私たちは結論を先に出して、あるいは同じ思考パターンにより情報を処理して生活を送っていく。私たちの心のシステムはその時々で安定を目指すものであるから、それは半ば必然的なことなのだ。そして当然ながら少しの刺激ではそのシステムが変わることはない。そのシステムは年齢を重ねるとともにより複雑になり、また硬直化して柔軟性を欠いていく。すると余計に変わらなくなる。5歳の子供が小さなボートのように、外的な力により簡単に方向を変えられるとすれば、50歳台のサラリーマンは大きな貨物船のようなものだ。小さな横波くらいで急に舵を切ることなどできない。たとえ進行方向が受動的に変えられたとしても、そのことを否認するだけだろう。あるいは自分が自発的に変えた、とうそぶくかもしれない。彼はそれこそ自分よりさらに巨大な黒い貨物船が向こうに見え、ぶつかったらこちらが大破するような状況で、ようやく舵を切ろうとするだろう。
さてそのような人がなぜ治療者のもとに通ってくることを想定してここに治療論として書いているか、ということであるが、本来治療を求めてくる人の多くは、何らかの不安を抱えて、精神的な支持を得たいがためである。「あなたのA案は間違っていますよ。B案の方を選んでください。」といわれることを想定し、期待してくる患者さんなどほとんどいないと言っていいであろう。せいぜい「私に答えを教えてください。」という方がいるくらいだ。するとB案にしなさい、という「説教型」の治療はほとんど意味がなくなってくる。むしろ適切なスタンスはこうである。「私が同じ立場だったら、B案の方がいいように思えます。でもあなたにとってA案がいいのか、B案がいいのか、というのはやってみないとわからないことだと思います。まず今、どちらをおやりになりたいか、から出発するということにしましょうか。」
ちなみにこの話は、アドバイスは適正価格で、という前回の治療論と連動していることは言うまでもない。ただし、B案として患者さんが明らかに不利なことを行おうとしていたら、たとえば自殺をしようとしていたり、薬を急にやめようとしていたら、話は別である。