2011年1月5日水曜日

関係性のストレスと母子関係

小沢さんに場合によっては辞職を迫る、という菅さんの発言を聞いていて、いよいよ本気なんだな、と思う。これは小泉さんとの比較で常に考えていたことだが、政治家にせよ、実業家にせよ、これがうまくいかなかったら現在の職を退いてもいい、という覚悟がないと、大きな決断はできないだろう。小泉さんが郵政改革を巡って2005年8月に衆議院を解散した時は、誰もが彼を「●っているとしか言いようがない」「説得の仕様がない」として翻意させることを諦めたような、孤独な決断を下したのである。
いくら自分がある決断を下したいと願っていても、それが客観的に正しいか間違っているかは、誰にも証明できない。そこで「それを世の中が是としないのなら仕方がない。仕事を辞めるだけだ。」という覚悟と共に決断するのは、その人の勇敢さとか豪胆さとかとは関係がないことである。だから私は小泉さんが特別勇気がある人間とも思えない。ただ彼は決断には必ずその職を賭すほどの覚悟が伴わなくてはならないことをよく知っていたのだと思う。
「これを言ったら相手は怒るのではないか?」「皆から非難を浴びるのではないか?」「支持率が下がるのではないか?」という恐れを抱く限り、重要な決断はできない。「支持率が下がってやめることがあっても仕方がない」と最初から腹をくくっていれば、何も恐れることはない。これは勇気ではないのだろうか?むしろ立場の選択の問題であり、それを可能にするような人生設計を持つことと思う。職を失っても別の選択肢があり、それで生きて行けるだけの準備をした上で、いざとなったら失っても大丈夫な職や立場を選択し、その職や立場を賭して決断しがいのあることを決断する。その順番なのだ。
さて今回の菅さんの決断は、覚悟やその背後にある選択によるものだったのだろうか?おそらく違うだろう。私は菅さんは本気で小沢さんに腹を立てたからだと思う。年末の小沢さんとの会談で、国会招致を受け入れない彼に、菅さんは非常に怒りをあらわにしたという。それに対して小沢さんは「菅さんがあんなに感情的になったのは見たことがない。しんどかった」というようなことを他人事のように語ったというが、菅さんは今や総理大臣である自分をないがしろにするような小沢さんに怒り心頭なのだろう。人間は腹を立てたら何でもできる。この大事な決断を、結果としてはよかったとは思うが、怒りという勢いまかせないと決断が下せないのは情けない。覚悟や選択による決断は、むしろ冷静さの中からこそ出てくるべきものだからだ。



そこで昨日の続きの母子間の問題。最近いつも考えていることは、なぜこれだけ子どもは親を憎むのだろうか、ということだ。親子の関係は、時としてアカの他人同士よりもはるかに大きな憎しみを生むのはどうしてであろう? 特に子供の親に対する憎しみが顕著に思われる。親の子に対する憎しみは、子が親に対して持つ憎しみに比べれば、多寡が知れているという印象がある。そしてこの親への憎しみの特徴は、それが過去の自分への仕打ちに対する恨みとして、しばしば事後的に表れるのである。これはその親子の関係にとっては不幸なことである。
一見親子の関係が順調にいっている時に、実は後になり子供が計り知れない憎しみを感じるような対応や言動が生じてしまう。子どもが無力で自分の気持を表現できずに生殺与奪の権を握られ、他方では親は簡単に子どもを無視し、自分の感じ方を強要するような状況では、それこそあらゆる気持ちのズレが子どもにとってのストレスやトラウマに繋がるのだ。あからさまな虐待は生じなくても、親が注意を払ってくれなかったというそれだけが、深く子どもを傷つける。人は自分とは関係ない人から無視されるよりは、親から無視されることで親を100倍憎むようになる。
これは親からすれば実に理不尽なことだ。子供は勝手に生まれてきて、100% のケアを要求して、感謝の言葉もない。時には無視をしたくもなるだろう。しかしそれは子どもにとっては許されないことなのだ。
香山リカ氏は「親子という病」(講談社現代新書)の中で佐野洋子氏の「シズコさん」(新潮社)にあるエピソードを紹介する。「4歳ぐらいのとき、手をつなごうと思って母さんの手に入れた瞬間、チッと舌打ちして私の手を振り払った」ことから始まる母娘の葛藤を描いているという。「関係性のストレス」が想定する basic fault (根本的な不具合、過ち)とはこのような瞬間を指すのであるが、それはおそらく「対人ストレス」としてはカウントされないであろう。