2010年10月15日金曜日

フランス留学記(1987年)      第5話 喋りたい、喋れない(前)

魚のことで大変なことが起きた。黒い魚が二匹、死んでしまったのである。昨日あたりから動きが鈍く、餌をやっても食いつきが悪かったと思ったら・・・・今日再びパソコンを開けて自分のブログに行ったら、すでにお腹を上にして浮かんでいた。手厚く葬っておいた。


年が明けて、とうとう恐れていたパリの寒さがやって来た。朝晩は零度付近を行ったり来たりしていた気温が、ある晩みるみるうちに下がり、これは只事じやないと思いつつ帰宅をし、窓の外に出してある寒暖計を見ると、マイナス10度を越えていた。その上パリには珍しく雪が降り、しかも一度降った雪はその気温では溶けるわけもなく道の上に溜まり、町は泥交じりの雪のぬかるみと化した。それに去年の暮れ以来延々と続いている鉄道、地下鉄、バス等のストライキも重なり、毎日病院に通うのに実に骨が折れた。
私の「戦い」の場所である病院での毎日も、それなりに変化が起きて来ていた。特に一緒に始めた留学生のファティマの変化にも目を見張るものがあった。私達は初めからお互いをライバルのように見なしていたので、この彼女の変化には私の方が動揺した。私の病院での目標はそれ自身は極めて単純なものであることは述べた。いかにそこの活動の中に入り込むか。そしてその為にするべきこともまた明らかだった。自分から行動を起こして自分の意欲を示し、それにより少しずつ病院の中で何らかの役割を果たして行くことである。その最終点は恐らく外来患者を一人でみるということであろうが、それは資格の関係上から許してもらえないだろうし、また到底その様な勇気もなかつた。しかしそこまでの間に出来る事は色々あった。
例えば毎日顔を出して、受け付けのアリエットがひまをもてあましているときにお喋りに行く、というのだって、それを堂々と行い、そしてアリエットが迷惑に思わないのであれば、一つの役割になりはしないか?大体が患者の数も少なく、一日のかなりの部分を他のスタッフとお喋りに費やすといつた二ュアンスが、特にエクステルヌや一部の看護婦にはあった。私もそれに加わりたいのであるが、それを自然にするだけの余裕がないから尻込みをすることになる。何とか積極的にしようと思っても、こればかりはどうしようもない。しかしそれをスタッフ達は私が社交性がないから、という様に受け取っている様である。病院に通い始めてもう四か月になるのに、言葉をまともに交したことのないスタッフはまだ沢山いた。彼等は私の顔を見ても、型通りの挨拶をすると、にこりともせず自分の仕事を続けたり他の人と楽しげに会話を始めたりする。しかしその原因は明らかに私のほうからの拒絶にあるのが分かる。私が言葉をかけるのをためらうのが彼等にわかり、彼等の方も気軽でない私とコミュニケーションを積極的には望まない。そしてこれらの事情は始めのうちは、アラプ人にしては珍しく自分を臆病timideと表現するファテイマも同じだつたはずである。私達は午前中で早々と病院を切り上げるとその近くの行き付けのカフェで毎日のように愚痴をこぼしあっていたのだから。しかし彼女は、まるで何かに憑かれたように、接触を持てる可能性のある人に次々と食い付いて行くようになった。昼食後も病院に取って返し、自分に出来る事はないかをしきりに搜し回り、タ方まで残る様になった。
それに従ってにわかに彼女のフランス語の理解の度合いも表現の力も増して行く様だった。これは私には少なからずショックだった。元々彼女と私には大体機会を分担して一緒のベースでやっていくという暗黙の了解があったが、それを彼女の方から一方的に破ったことになる。こうなると私も黙って見てはいられなくなった。結局彼女と同じようにこれまでのように午前中で病院を引き上げるということをせずに、出来る限りスタッフの傍にいて症例を一緒に見せて貰う、という努力を払うことになってしまった。そのため私の生活のペースも多少なりとも変わらざるを得なくなった。午前だけで帰ってしまう限り病院は依然としてそこからの逃避するところでしかない。しかし一日の大半を過ごすならば覚悟が違う。そしてそうしようと思えば逆に気楽な気になることもあるから不思議である。しかし一緒に病院に残っていても私は彼女のように人の中に入って行けず、取り残されて寂しい想いをすることが多かった。(続く)