一年で一番いい季節である。このところブログの更新が「楽」である。23年ぶりの自分の原稿の誤字をチェックしながら読み進め、全然メンタリティとしては変わっていない(進歩していない?)と感じる。もしまたパリ留学を一年するならば、きっと似たような内容の文を書くような気がする・・・・。
年も押しつまり、朝晩の寒さがこたえる時期になると、あれほど毎日を重苦しいと感じていた渡仏直後の時期とは、少し気分が違って来た。精神医学的には外国生活を始めてから三か月頃がカルチャーショックの最も起こりやすい時期であると唱える人があるが、丁度三か月目を過ぎ、街がクリスマスの飾り付けに忙しくなることになっても、私の心には特別「異常」と思える事態は生じていない。初めの内は、自分が欝になるのではないか、ひょっとすると分裂病(統合失調症)が発病するのではないか、などという不安があったが、その様なことの起きる気配は今のところない。私は自分が持っていた耐性に少し安心した。日本を出る前は、自分が外国生活という状況にどの様に反応するのかという予想がつかず、最悪の状態まで想像していたのである。
毎日の寂しさを救ってくれるものの一つとして、テレビがある。私は十月の終わりに白黒のテレビを購入し、本当は禁止されているのを無視して大学都市の我が部屋に持ちこんでいた。それ以来生活のリズムがかなり変ったという気がする。パリでは現在TF1, Antenne2, FR3, LA CINQ, CANAL+, M6の6チャンネルがうつる。どれも取り立てて手間をかけた番組を作っているという印象を受けず、映画とニユース、後はバラエテイ番組や埋め草としてのアニメ (日本のものが圧倒的に多い!) が主流を占めるが、それでもラジオとは全く異なり、少なくとも我慢してつきあっているということはなく、少し退屈するとかなり積極的にスイッチを操っている。もししっかり身を入れて見るのであれば言葉の習得にとっても最通であることは言うまでもない。特に夜眠れずにいるときなどは退屈凌ぎとしてもよい。少なくともLA CINQは夜中の三時近くまでやっている。といっても何年も前の、「刑事コジャック」や「スタートレック」などテレビ映画を繰り返し放映しているのだが。CANAL+はやはり夜中までやっていて、映画を連続で流しているが、デコーダーという機械を月200フラン出して借りなくては聴取出来ない仕組みになっている。
番組を見ていると、つくづく登場する人達の態度の、日本との相違を感じる。全体の印象としては、出ている人達が自分の感情、嗜好を隠そうとしないという感じである。よく店のカウンタ一や郵便局の窓口で、店員や係員が隣同志でお喋りして、それが一段落するまでは客の応対をしない、ということがあるが、さすがにテレビに出ている人にはそこまでは行かないにしても、それとすこし似たような状況に出会う。日本のタレント達の様に試聴者へのサービス精神に満ちてはいず、例えばクイズ番組でスイッチを押すだけのアシスタントが、「退屈だわ」と言わんばかりに溜め息をついたりする。またテレビという媒体を通して多数の試聴者と接していることによる緊張、はにかみといったものが初めから表現を許されないため、日本でその様な感情が起きる様な場面で、迷惑しているのは自分の方だ、といった表情を見せる。クイズ番組でゲストが間違いの答えを出すと、彼は照れるかわりに如何にも不愉快だ、といった感じで顔をしかめる。
街で通行人をつかまえてのインタビュウを録画した番組では、日本でよく見られる様に恥ずかしそうに笑いながらカメラを避けて逃げるような人はなく、ちょっと戸惑った後、開き直って堂々と意見を述べるか、あるいは初めからほっといてくれ、と言ってインタビュアーに本気で抵抗するか、である。またそういう時はインタビュアーも負けてはいない。無愛想に行って仕舞う通行人には、肩をすくめて「正々堂々と意見を言えない人は御手上げだ」、といった表情を作る。インタビュウされた人が「あなたの質問の意味が分からない」、と抵抗されると、インタビュアーは「あなたは何の質問の意味が分からないのか」、などととぼけてなお食い下がる。
このようなシーンをテレビで眺めることは、実際の対人場面で悩まされるのとは違って、純粋に「マン・ワッチング」をしている様で面白い。こんな時自分だったらどうするだろう、と少し距離をおいて冷静に考えることが出来る。フランス人の物腰や態度を見ながらその根本に流れるものは何かをあえて問うていくと、私は結局「粋」である、ということに行き当たる。思うにフランス人にとつて「粋」であることは、生きる上での原則といった感じである。彼等は常に決して人からやぼったいと思われる様な態度、人に馬鹿にされたり弱みに付け込まれるようなことは言ったりしたりしない。Le ridicule tue (馬鹿にされるのは命とりである。) という表現が見事に示す通り、他人に明らかな弱みを見せること、あるいはその弱みを晒したという事実を認めることは、そのままその存在をも否定され兼ねないことになる。従って「粋」とは「開き直ること」ということでもある。誰もが気付いている通り、人間の弱み、とはそれを自認する態度をもって完成するのである。フランス人の他人を射る様な視線は、まさに弱みを決して認めず、あくまで開き直り続ける、という姿勢である、といえる。
私はまた「粋」である、ということを、ひそかに「セクシ一である」ということに置き代えてもいる。私はこれまで当り前過ぎて述べていなかったが、フランスで出会う人々は男女共にことごとくシックでセクシーであり、この点だけは多くの日本人は絶対にかなわない。ここまで言いきって仕舞うのはもう私の偏見以外のなにものでもないかも知れないが、しかし私は何も日本人鼻の低さといったレベルについて云々しているのではない。日本人にとって「粋」であることは必ずしも重要でないばかりか、自己を卑下し、とりつくろわないことは積極的な意味をも持つ。それを再びテレビの話題との関連で言うならば、フランス人の笑いはこのトボケないし自己卑下的な言葉の生み出す笑いが余り伝わって来ない。フランス人が好むのは政治家の物真似やあてこすりといった、フロイトだったら、hostile jokeと分類するであろうジョークが主流を占めるようである。(終)