2010年10月16日土曜日

フランス留学記(1987年)  第5章 「喋りたい、喋れない」(中)

ほとんど愚痴をこぼしているだけという私の「留学記」を粛々と続ける。


パリの大学病院の精神科で研修をしていて思うのは、実に多くの研究会や講義がパリの各地で開かれるということである。精神科の掲示版には、常に多くの研究会の案内が貼られ、その気があってもとても全部参加してはいられない。私は出不精ながらいくつかの興味有るものには顔を出した。
年が明けて一月の始めに、ラカン派の集まり"1e Champ Freudien" の「日仏グループ」が主催して、「日本的なものLa chose Japonaise」と題して学会が開かれた。その狙いはラカンが生前語っていた、日本(人)における主体(主語)、ないしsigne の欠如、ということについての検討ということであった。朝から昼食をはさんで夕方までぶっとおしの議論が行なわれ、その締め括りとして最後に主催者のジャック・アラン・ミレル氏(ラカンの娘婿であり、後継者)が長々と演説を行なった。彼はラカンの「日本人は無意識の中に閉ざされている」という言葉の引用に始まり、日本人の心性についての生前のラカンのただならぬ関心を語つたが、それはラカンの死後必ずしも一時の隆盛を保っているとはいえないラカン派の精神分析が新たな話題を提供することを意図している様に思えた。
それを聞きながら、私はそこに参加している人の半数ほどの日本人達が、自らの主体性の存否を問われている議論に対してなぜ多少なりとも慣りをもって応じないのかと疑問に思っていた。勿論ラカン自身の意図がそのレベルになかったことはわかるが、その様な問題の立て方についての日本人としての素朴な感情の方が、ラカンのともすれば断片的で真意を掘みかねる言説の解釈学以上に私には興味のある点であった。但し私は参加者のフランス語での応酬について行くことが出来ず、自分の興味のある論点に関して断片的な発言をする以上のことは何も出来なかつたが。
私達留学生の、比較的単調な毎日にも、四箇月目を越えるあたりから変化が生じるごとになった。ファティマの動きが明らかにそれまでと異なって来たことは述べた。彼女は同じシリア出身のドレッドにつきアラプ系の何人かの患者を一緒に見るようになっていた。私にも既に二人日本人の患者はあったし、ファティマが患者を持つことそれ自体は特別の事とも思えなかったが、そのうち彼女は毎週水曜に行なわれている教授の診察の時に症例のプレゼンテーションをする、と言い出す。(これはその日の新患を30分足らずで診察し、医局員の前で教授に彼自身の診察に先だって纏めて報告するもので、通常はアンテルヌ(インターン、研修医)やエクステルヌ(医学生)が交替で行なっている。それを私達留学生が行なうことは比較的大変な作業であった。)そして私がハラハラ見ているのをよそ目に、初めてとしては見事にそれをやってのけてしまった。私はそれを見ながら、ファティマにできるのであれば、わたしもできるはずだ、と考えた。しかし自分も彼女のように自分から志願してプレセンテーションをするだけの自信はどうしてもないのである。わたしはいよいよ一人取り残された、という気がした。
フランスの病院でのもうひとつの苦労は、フランス人の手書きの文字の読みにくさであった。こちらでは男女を問わず、丁寧に書かれた文字というのが希で、しかも個人個人が勝手に文字を崩して書くため、せめてカルテを見て患一者の状態を少しでも把握したいと思っても、それにはまた途方もない時間がかかった。言集も分からず、文字も(勿論タイプされたものは別として)分からないとあっては落ち込まない方がおかしいかも知れない。またこの頃私はひどい風邪にやられ、四日間の間満足に外に出られない、という目にあつた。病院通いを返上して大学都市の狭い部屋で一日じゅう横になっていると、日本のことが無性に思い出された。一度体み出すと、毎日せっせと通ったとはいえ気が進まなかつた病院にますます行く気がなくなる。いかに無理をして、毎日病院に顔を出していたかをしみじみ感じるのである。いっそこのまま日本に帰る訳もいかないか、などとも考えたりしていた。
熱も下がってようやく病院に出ると、ちょうどエクステルヌの交代の時期で、それまでにかなり気心の知れていた幾人かのエクステルヌに交わって、新しいエクステルヌが通う様になっていたが、彼等のフランス語がまた途方もなく早くて少しもわからず、ますます私だけが取り残されたような感じが強くなった。後に思い出しても、この頃が最も辛い時期だったようである。私はその頃よく夕食を共にした、大学都市の同じ館に住む大学教師のE氏や、日ごろのお喋りの相手のファティマ、ドレッド、心理の学生のマリー・テレーズを相手に、「毎日がつらくて仕様がない」、と何度もぼやいた。私が患者を相手にして治療者として話すことにどうしても自信が持てず、その為に何らかの責任ある仕事を持たせてほしいという旨を医長のギリベール氏に言い出せないこと、そして彼も私が自信のないのを感じ取り、私に責任を持たせてくれなかった事などを、自分でも情なくなるほどに何度も繰り返したのである。フランス人の常で、自分からそのことを言い出さない限り、その人が意欲があるとは認められない。ところが私は一方ではもし何らかの仕事をどうしても負わされたとしたら、きっと何とかするだろうと思うのである。もしある患者について全面的な責任を持ち、それを回りが認めるのであれば、私はむしろ容易に自分のtimidité(気弱さ)を克服出来るであろう。(続く)