2010年10月13日水曜日

フランス留学記(1987年) 第四話 ドレッドのようにはなれない私(中)

留学記は相変わらずだが、すこしは役に立っているという読者の方の声もあるので続けようと思う。実はあまり残っていないのだ。

街はそろそろクリスマスシーズンが近付き、静かながらもどこか活気を帯びて来た。フランス人は一般に夏の休暇が長いが、冬にまで長く休もうとはさすがに思わないらしい。それでもこれまで聴講していた大学の幾つかのクラスも一ケ月近く休みに入り、私も次第にその分時間がとれる様になってくる。私は週のうち平均して三コマの授業に出る様になっている。授業といっても少人数の日本で「クルズス」と呼んでいた感じの、しかも精神科の専門過程の学生を基本的には対象としているものであるが、誰でも気軽に聞きに行けるといったものである。一つはサンタンヌ病院での臨床講義、もう一つはネッケル病院の精神科で行なわれる精神療法の講義、そして最後はネッケ.ル病院の小児精神科での臨床講義である。
私はこれらのうち外国人留学生を専ら対象とするものや、数人以下の授業の場合などには、質問などの形で発言することにさほど抵抗を感じないようになっていた。勿論授業の内容がある程度理解出来て、それに対して自分の中に表現したい内容が生まれる、という場合に限られる。これはネッケルの精神科での様々な集まりについても同様である。何か発言することによって初めて自分も少しは授業に参加している、という気持ちになり安心するのである。逆に発言するチャンスを窺っているうちに突然話題が変わって、それを果たせなかった場合は、大学都市に帰って一人部屋に向かっていると、まるで自分が無くなってしまった様な、今日一日何をやったのだろう、という気分になり、むしろ精神衛生上よくない。人前でたどたどしいフランス語を披露するのも辛いが、それが出来ずに過ごす夜も苦しいのである。
もっともこれらの心理状態の裏には当然ながら「うまく発言をして自分の存在を知らせたい」という願いがあるのだが。この様な問題を実際抱えながら日本から持参した内沼幸雄氏の「対人恐怖の人間学」を寝る前に改めて読み返すと、まるで自分が患者の立場に立った様で改めて考えさせられることが多い。
すこし話題が変わるが、このごろやはりよく考えされられることについても書いて置きたい。それは私が持っていた欧米人へのコンプレックスのうち、その独創性や生産性の問題についてである。これまでも繰り返したように、彼等は自己主張が強く、常にある事柄について一定の息見を持ち、それを臆する事なく語るということが常識とされる。私はそこに同時に彼等の創造性をも読みこんで仕舞う傾向にあった。それに対して日本人は、欧米人の主張ないし、彼等の作り出したものを模倣し、改良したものを生産する傾向が強いという訳である。言うまでもなく、この明治以来さんざんに言い古された日欧比較論は極めて一面的なものでしかない可能性がある。自己主張が強いこととその内容の生産性とは必ずしも一致しない。それならば日本人は既成の考え方にとらわれない独自の考え方をり保ちさえすれば、とりあえずは救われる、という気がする。
やや一般化した言い方をしたが、これは私がネッケル病院に来て以来持ったフランスの精神科医や医学生との議論の間常に考えさせられることであり、ここでの「日本人」とは、彼等フランス人の前でその主張の強さに圧倒されて言葉を失い、そのことへの言いわけを考えている私のことなのである。私はしばしば彼等の声の大きさとその断定的な言い方に押され、冷静さを失う。その様なときは彼等の主張がどの程度実質的な意味があるかについて考える余裕を失い、相手を説得出来なかった、という敗北感と空しさを味わう。そこで私はむしろ教師と学生とのやり取り等を第三者的に眺めながらこの問題を考えることが多かった。その結果として私は彼等の自己主張性と独創性ないし議論の生産性との間には、むしろ逆の相関関係が成立している場合が多いのでないかという考えを抱くようになって来た。それは私のフランス人に対する一種のコンプレックスを軽減させることに少なからず役に立って来ている様である。
私が参加している授業では、生徒はそれぞれ目的意識を持って教室にやって来るようであり、授業に出席するのも彼等の自己主張の現われ、といったニュワンスがある。彼等は思い思いの服装をして現われ、教師が座る席を取り囲むようにして授業が始まるのを待つ。授業が始まっても、その一言一言に敏感に反応し、すぐにでも教師との議論が始まる。日本でのどちらかというと受け身的な生徒の態度とはかなり異なるのである。しかしその議論の内容は、教師の言った直接の内容についての矛盾を突く、自分の持っている知識との相違を問い正す、といったことが多い。中には単にへ理屈としか言いようのないことで教師に食い下がるといったことも多く、また教師もそれによく付き合う。フランス語特有のリズミカルな言葉のやり取りで相手を如何に早く黙らせるか、というゲームを楽しんでいるようである。従って彼等の一見内容豊富な議論を聞いていても、その発想の意外性や独創性に惹かれるということは思ったよりは少ない。
この理由についてあれこれ考えて行くと、それはむしろ彼等が過去の具体的な事実、あるいは既存の形式を非常に重んじる傾向に由来するのではないかという考えに行き着く。この結論はこのままでは余りにも言葉足らずだとわかっているが、この授業の場面に関して簡単に言えば、生徒が自己主張する場合、そこには相手との対決というニュワンスがどうしても含まれ、その為に客観的な資料、既成事実に依居するという必要性が生じてくる。それが結果的に彼らを非常に保守的な考え方に閉じ込めているという可能性があるのだ。(続く)