このブログの読者(推定20人)に訂正しなくてはならない。しばらく前に、「御茶ノ水にエレベーターができるのか?」と書いたが、結局違っていた。駅前の売店を大きくコンビニっぽくして新装開店しただけであった。
しかし日中関係はいよいよわからなくなってきた。中国が「お前こそ謝れ」といってきたのに対して、日本が「とんでもない」と少し本気になると、中国政府は何も言ってこないのである。その間にアメリカやヨーロッパからの批判が相次いだからか?もし中国を一人の人間と考えると、これでは会話が成り立たない。相手の本心というものがさっぱり見えてこないのだ。日本はそれこそ「粛々と」自分の主張をするというのがベストだということか?しかしそれにしても、事の顛末が記録されている映像をなぜ公開しないかといえば、「中国側に配慮して」というが、このロジックも中国側のそれ以上に私には不明なのだが・・・・。また日中関係の愚痴になってしまった。外交が自分の仕事に関係なくて、つくづくよかったと思う。
さて以下は、留学期の続きである。
パリの冬は足が速い。10月ごろにはすでに霜が下りる朝もあり、12月に入るといよいよ本格的な寒さが身にしみる季節になった。折しもパリでは大学入学制度の改革案(デバケ法案)に対する反対の運動が盛り上がり、直ちにそれはC.G.T.やC.F.D.T.などの労働組合団体にまで波及した。そして連日リセの学生が「マニッフ」(示威行進)を繰り広げ、とうとう同法案を廃案に追いやる、という事態が生じていた。あれほど何かと理由をつけては仕事を体みたがる(といっては失礼だが)パリ人の何処にこのエネルギーが潜んでいるのだろうか、と、まるでピクニック気分のようににぎやかなデモ行進を横目に見て歩きながら私は考えていた。
しかしこれも思い直せば当然のこととも言える。彼等フランス人たちは、自分達の権利を要求する為にあらゆる抵抗を行なう用意がある。フランスの歴史は、自由を求めての民衆の闘争の歴史とも言える。日ごろは極端なまでに個人主義的な彼等が連帯するとすればまさにその様な時しかないだろう。
私はこのごろネッケル病院の一人の医師が気になる存在になっていた。彼はドレッドといい、シリアから四年前にパリに来てD.I.S.として研修を続け、今は外国人留学生ながらアンテルヌと同様の働きをしていた。大柄で小太りの体格をした陽気な男で、いつも会う度に髭だらけの顔に笑みを浮かべて握手を求めて来た。彼は症例検討会に機会ある度ごとに自分の症例を提示し、その他の研究会でもいつも進んで意見を述べた。歳は三十代半ばで、またその容貎といい自信に満ちた態度といい、とにかく人を圧倒するものがあった。その言葉はアラブ系の人々に特有のなまりがあるにしても非常に流暢であった。ドレッドが見せたフランス語の習得の早さについてはネッケルの精神科で今でも語り種になっていた。彼自身に聞いた話も総合すると、彼は四年前にパリに着いたとき、フランス語を殆ど知らなかったという。そこで四ヶ月アリアンス・フランセーズ(パリの外国人用の語学学校)に通った後このネッケル病院で研修を始めた。しかし当然のことながら始めは全く言葉が分からず、その頃は相当の苦労をなめたらしい。しかし彼はフランス語以外の一切の言葉を使うことを自らに禁じ、来る日もくる日も医師や看護婦につきまとって終日フランス語を話し続け、半年後には何と初めて「精神療法」の患者を受け持ったという。やがて学部の一年目の試験に合格し、郊外の病院の勤務医として報酬を得るようになり、母国から両親と妻子を呼び寄せ、ますますエネルギッシュに言葉の習得や精神医学の研修活動を続けて現在に至っているという。
「ドレッドはあんたよりよっぼど話せないうちから必死に症例報告をしていたわよ」と看護婦のマルチーヌが私に言い、そう言われた私は落ち込む代わりにちょっとした感動を覚えた。何かにひたむきになっている人を見るのは、それがあからさまな私利を求めるものでなければ心地好いものである。彼の人を真っ直ぐ見据える目と、穏やかだが確信に満ちた、そして時にかなり強引な話し方に触れると、彼に、始めのうちどんなに言葉のハンディの為に悩んだか、などということを聞く気も失せた。
彼は母国のシリアがいかに精神医療の面で立ち遅れているか、自分が一、二年の後に精神科医として帰国した時に待っている仕事がいかに困難を極めるものなのかについて熱つぼく語った。それを聞いている内に、私はこれほど男らしい人はいないだろう、と素朴に感じた。とにかくいつも勇敢に先へ先へと進んで行くその態度には感嘆した。これではフランス語が短期間に上達したのも分かる。彼はフランス語を用いることが必然となるような状態に自分を置き続けたのである。
私はドレッドに、異なる世界でも自らを主張し続け、やがてその地歩を獲得していく人のひな型を見た様な気がした。彼を見ているうちに私にもある種の心境の変化が生じてくるようであった。とにかくドレッドのように前に出ることを考えなくては。少なくとも幾人かの会話の中で、自分にも話す内容があるのにそれを切り出せない、ということでは困る。とにかく発音、言い回しの不充分さ、という考えを頭から除外して何らかの意味内容を伝えられればそれで満足しよう、と一度は決心した。
しかしこの種の「決心」ほど当てにならぬものはない。後に振り返っても私のいつもの引っ込み思案な態度は彼を知った後でも殆ど変わっていなかったと思う。私の中には彼のイメージやその生き方が、一種のプロトタイプとして深く刻まれたものの、私はやはり何時の間にかドレッド流に行きることを深く拒否しているのである。そしてそれは正解だったのだ。要は、世の中には人前であがる、ということが考えられなかったり、自己主張を心から楽しみつつする人がいるものなのだ。そしてそうではない私のような人間もいる・・・・・・。(続く)