2010年10月5日火曜日

フランス留学記(1987年)第1章「とにかくフランスに渡ってしまった」(3)

今日は二人から、「チビちゃん大丈夫?」と聞かれてしまった。実はチビは不幸である。どうして分かるのだろうか?神さんが急性腸炎で入院してしまい、幸い快方に向かっているが、チビは私と残されてどうしていいかわからないようである。チビとは最近一言もかわしていない。完全に関係は冷え切っている。チビは餌も食べず、心なしか顔色もすぐれない。きっと私の愛情が足りないのだろう。

ということで、留学記。一向に話は盛り上がることなく、第一章が終わる。

(承前)イヴ・ぺリシエ教授の名前は、日本ではクセジュ文庫の「精神医学の歴史」の著者、という以上にはあまり知る機会はないが、フランス精神医学界のまさに重鎮であり、またその関心の範囲も、社会精神医学、薬物精神医学、はたまたテレンバッハその他についての精神病理学的な著書をものする、といった八面六臂的な活躍ぶりであった。
私が指定された日時に教授室を訪れると、ぺリシエ教授は大きな手で握手を求め、暖かく私を迎えてくれた。教授は私の研修の「計画」についての考えを聞くと、さっそく医長のギリベール医師を呼び、私の研修の具体的なプログラムを作るように、と命じた。
実は私はこのペリシエ教授との面接に当たってある考えがあって、それを教授にうまく伝えるにはどうしたらいいか、と思案していた。その考えとは、本来私が精神分析に特に興味を持っていたため、どうせパリに一年という限られた期間しか居られないのなら、フランスの精神分析状況をも覗いてみようと思っていたことに関連していた。ぺリシエ教授は特に精神分析に造詣が深いと聞いてはいなかったので、精神分析をやりたいという私の希望を聞いたならどこか特別の機関を研修機関として紹介してくれるかも知れない、ともくろんでいたのである。しかしぺリシエ教授の話を伺っているうちにここでしばらく研修させてもらっても悔いはないな、という気になって来た。後に教授の講義や患者との面接に立ち会った際により強く感じるに至ったが、教授の話しぶりには一種独特の説得力があった。
このぺリシエ教搜の威光を慕ってか、ネッケル病院の外来棟は、小さいながらも多くの学生、研修生が集まって来ていた。数人のグループで研修する第4、5、6学年の医学生(エクステルヌ)以外にも多くの外国からの研修生がここでの研修を希望して来ていた。私は、研修場所で一人きりで右往左往する羽目になるのではないか、という不安も、私と同じ身分の研修生がいると分かればとりあえずは解消された。少なくとも言葉の点で私と似た様なレベルの研修生が何人かいる、ということは心強いものだった。ネッケルの精神科の外国人留学生はイギリス、ブラジル、ボリビア、コロンビア、など様々な国からやって来ているという。歳は皆 20 代後半から30代前半、皆それぞれ自国の医師としての資格を持っている。
その様な留学生の中に、シリアから来たファティマという女性がいた。私ともそれほど年齢が離れていたわけではないが、その小柄で愛嬉のある姿は実際の年齢に比べて遥かに幼く見えた。彼女と私とは共通点といえばかなりあやしげなフランス語のレベルぐらいのものであるが、それでも病院内では良き仲間となった。他の留学生が休み勝ちで、病院の活動に最小限に顔を出している中で、とにかく彼女は真面目に毎日朝から病院に通ってくる。私もたいして用もないのに通うことだけは通ったから、彼女とは始終顔を合わせていることになる。それに私も彼女も病院内での勝手が分からないことは同じで、従って取る行動も判で押したように似てくる。一人だけが窮地に陥らないように、何となくいつも傍に居て、分からないことがあると顔色を伺い、相談をする、という具合である。互いに不充分な言葉を用いて話すにもかかわらず、彼女との会話では言葉の問題は殆ど解消して仕舞うのは不思議だった。
フランス人とのコミュニケーションに関しては、初めから大きな障害があったことは言うまでもない。そもそも相手と能力の差が歴然としている言葉を用いて会話をする場合は、意志が伝わらない責任は全て言葉が不自由な側が負うことになり、それがもとでたちまち相手との間に一種の精神的な力の勾l配が生じることになる。それでも敢えて会話が成立するとしたら、具体的な情報の交換が何よりも優先される場合か、もともとその言葉のレッスンを前提としているか、あるいは相手の友情に一方的に依存するか、あるいは相手が他人に教えることが本来好きな場合であるか、はたまた言語的なコミュニケーションが二次的となるような関係、例えば親友関係とか恋愛関係などにあるかである。これらのいずれも私の日常生活の中では成立していない。
病院での医師、エクステルヌ達と会話をする際はなるべく私が彼等に伝えられるような情報、例えば日本での精神医療を体験した立場からの意見を伝えるようにし、それ以外の、例えば会話の上で出会う未知の単語などについて教えを乞うことは避けよう、などと私はかたくなにも考えた。実際会話の途中で彼等にとって余りに当り前な言い回しにいちいち説明を求めることは、その度に彼等の会話を遮って疲れさせるような気がして、その種のことばかりが必要以上に気になる私はつい消極的になる。恐らくこんなことでは言葉の習得には遠回りであろうが、ある種の負い目を感じながら話すよりはよほど楽であることも確かである。
私はスタッフ達の会話に自分が入りこむ糸口があればとにかく言葉を発してみようと考え、出来る限り実行した。それはおよそ自然な会話とは言えなかったであろう。しかし私の方でも、いい加減に言葉のハンディでいつも受け身的な立場に立たされることに嫌気が差し始めていたので、半ばやけになって自己主張を試みていた所がある。ネッケル病院での精神科では、午前中にエクステルヌや外国人留学生の教育を目的とした幾つかのスケジュールも組まれていた。毎週水曜日にはペリシエ教授の臨床講義があり、金曜日には分析家のプラックス氏の症例検討会があった。また月に一回は「映画の会」と題して、各メンバーが最近見た映画について語る、という場が設けられていた。これは教授資格者のドゥブレ医師が主催しているもので、如何にもディレッタントの多いフランスの大学の精神科らしかった。
ネッケル病院の精神科には外来診療部門の他にもデイホスピタルがあった。週末にはデイホスピタルでの活動のまとめが午前中一杯かかってなされた。このデイホスピタルの集まりは私達留学生にとって最もストレスの多い時間であった。とにかくデイホスビタルに毎日かかりきりのスタッフ達の意見の交換は途方もなく速い会話で行なわれ、その内容も患者の病歴や家族層の詳細にまで及ぶ。患者の顔さえ知らない私達にとってはそれらの内容が皆目つかめなかった。そのような時はわけが分からずただ座っているだけ、という実に辛い時間を過ごさなくてはならない。
午前中の予定が終わって仕舞うと、エクステルヌも私達もさし当たりもう病院に残っている必要はない。しかし午前中いっぱいフランス語に浸り、それだけで疲れきってしまい、もう言葉を理解しようというあらゆる努力を放棄したくなる。その様な時は私達留学生同志の気楽な会話が唯一の救いとなる。私達はフランスの医学生が使う簡単な精神科のテキストを求め、毎日昼食後に一緒に少しずつ読み進めることにした。