2010年10月4日月曜日

フランス留学記(1987年)第1章「とにかくフランスに渡ってしまった」(2)

いったん始めたことなので、留学期の連載をもう少し続ける。今から読み直しても、はっきり言って特に面白くもなんともない。何かクラ~い雰囲気が漂って来るだけだ。留学生の鬱々とした気分を描写しているだけ、という感じである。そしてまさにそれが、この原稿が星和書店からボツになった理由である(ただし1987年当事)。「なんとなく雰囲気が暗いですね。・・・」と暗黙のうちに断られた。それからこの原稿は一切日の目を見る予定ではなかったのである。

(承前)とはいえ、フランスの留学に関しての具体的な計画を全く持っていなかったという訳ではない。第一フランス給費留学生の試験の際にはその受験手続きの段階でかなり詳細な研究内容の計画書と、研修先の機関からの受け入れ承諾書の提出が義務付けられていた。受け入れ先は、大学の元教授である土居健郎先生にお願いしてパリのネッケル病院を紹介して貰い、そこのペリシエ教授からの丁寧な受け入れの承諾書を頂く、という幸運に恵まれたが、研究計画には、私の日本での研究テーマにわずかに触れた以外は、「日本、フランスの精神医療の在り方の比較を通して、日仏両国の国民性の在り方の差異に光を当て、ひいては両国の相互理解に少しでも寄与したい」、という、まんざら嘘でもないが、甚だ具体性に欠ける内容を書き、口頭試問でもそれを押し通した。私は今もって何故このような漠然とした留学の理由が審査を通ったのか理解に苦しむ。しかしこれ以上の具体的な言い方をすれば嘘が余計大きく成る、という気もした。
私がフランスを訪れるのは今回が初めてではない。四年前の、医師国家試験を終えてからその結果の発表までの期間を利用して私はおよそ一月半、全く無計画にヨーロッパをひとり旅した。これは、私にとって西洋に生まれて初めて接するという体験であると同時に、全く違う視点から日本を体験するということでもあった。この時の、決して心地好いとは言えない体験は、しかしその後の四年間の精神科医として仕事を続けながらも決して頭を去らなかったような気がする。これまでの常識が容易に通用しそうにない世界がこの世に存在すること、そこに住む人々と、主として言葉の障害の為に簡単なコミュニケーションさえもままならないこと。そして恐らくは言葉の障害以上の何かによって、自らがまるで無力な子供のような心理状態に陥ることを余儀なくされたこと………。人にはそれぞれ容易に忘れられることと、決して忘れられず、それに対してある一定の結論を出す迄は落ち着いた気分になれないことがある。それを無理に忘れようとしてもコンプレックスとなっていよいよその隠された力を振るい続けることになる。私の場合はこの外国での短期間の体験が、その様な性質を持っていた。しかしこう書けば聞こえは良いが、結局私の渡仏は一種の現実逃避や、緩やかなアクテイング・アウトと変わりがないのかも知れない。私の日本での四年間の精神科医の生活も、自分では気がつかなったが不適応だったのかも知れない。但しこれらの考えには私自身が一年の後にここで何が出来たかによって答えを出すしかないのであろう。
パリに到着して、各国の留学生が集まる14区の大学都市にあるキユーバ館という所にとりあえず落ち着いた私は、十月の始めからの研修を待つ十日余りを、一人で街を歩き回ることに費やした。パリの人々は、互いに楽しげに話し、そして誰もが鷲くほどの確信に満ちた表情で街を活歩している様に見えた。ちょうど九月に入ってから半月余りの間に集中的に爆弾テロが相次いだせいか、バリの街全体が一種殺気に満ちたものとしても感じられた。東京にいた時には考えられないほどしっかりと手荷物を握り締めながら、私もせい一杯目を見張って歩いていたのだろう。そのせいか町をしばらく歩くだけでくたくたになり、すぐ大学都市に戻って来てしまう。しかし部屋に戻ればつい数日前までいた東京の町並みや友人の顔ばかり思い出している。
私が勤務していたあの埼玉の病院では、今頃は患者が夕食を前にして配膳室の前に静かに列を作り出す時間だな、などと考える。そしてついこのあいだまで私は病棟にいてそれを見ていたのだ、と思うと、一体自分だけ何でこんな所に来てしまったのだろうなどと不思議な気持ちにもなる。大学都市の部屋にいる時は、それでも出来るだけラジオを付けっぱなしにし、少しでも言葉に慣れよう、と試みはした。私は実際フランスに来る前、ある心配をしていた。それは私のフランスに対する思い入れが、二十代の初めのアテネフランセに通って少しずつ言葉を覚え始めた頃に比べて薄れて来ている為で、せっかくパリに来ても始めからフランスでの言葉の上達を放棄して仕舞うのではないか、ということだった。
国際的なコミュニケーションの手段としてはフランス語の力が如何に弱いかは、残念ながら最近になって十分すぎるほど身にしみて感じる機会があった。留学先としてこの国を選んだのも、医学部時代から引きずっていた憧れにとりあえずけりを付けたい、という気持ちのせいでもあった。他方ではゆっくり身を落ち着けるのであればむしろ英語圈にしたい、という考えが頭にある。恐らく一年の給費期間が終わったらフランスを去ることは確かであろう。その様な気持ちでどの程度自分はここでの適応に取り組む気になるのだろうか・・・・・・。
しかし実際この国に来てみると、それこそ生きる手段とも言えるフランス語を習得することは、想像以上に差し迫った問題になる。言葉が分からない、ということが最大のフラストレーションになる以上その苦痛を少しでも軽く使用とするのはむしろ自然であろう。結局、新聞やラジオで意味の分からない単語を辞書で引く、ということが日常生活のかなりの時間を占めることになる。この決して楽しいとは言えない作業に携わるだけ、生活は重苦しく憂欝なものとなる。まるでいつも何処かに鈍痛を抱えて生活をしている人の様なものだ。
それに何よりたちが悪いのは、言葉のハンディの為に他人とコミュニケーションがままならないと、深刻な自信喪失を起こしかねないということである。ただ町を歩き、あちこちを見物して回るだけでも様々なコミュニケーションの機会があり、その度ごとに何等かの挫折感を味わう。P.T.T.(郵便電話局)でも、カフェでも、そして留学生の事務一般を扱ってくれるC.I.E.S.という機関でも、対応に出てくる人はおおむね無愛想で事務的だ。特に日本での丁寧な応対に慣れていると、受け付けに座っているパリジャン達はまるで自分に敵意を持っているのではないか、とまで考えてしまう。その様なそっけない対応を二、三回続けて受けるだけで気が減入ってしまい、ここパリでは自分は全く歓迎されていない、という気になる。
事実私はこれには相当悩まされた。パリについて数日でもう軽欝状態である。もともと孤独癖が強いようでいて、人と情緒的なコミュニケーションを持たずに一日を送ることに耐えられない。日本人の話し相手が欲しいが、大学都市に多い日本人にも生憎顔見知りはまだいない。一人の生活がいけないのであれば、ネッケル病院に通い出せば少しは治まるかも知れないが、そこで必要とされるフランス語でのスタッフや患者と会話のことを思うと余計憂欝、というよりは一種の恐怖を感じる始末であった。
人はパリ留学、というだけで如何に多くの非現実的な夢を描いて仕舞うのだろう。私自身はこちらに来る前から少しはその辛さを想像出来ていた様に思っていたが、ここで実際にパリ人のそっけなさや個人主義的な態度を直接感じ取ると、彼等の中に交じっての病院での研修は思ったよりはるかに大変なものになりそうなことはっきり想像がつく。やはり自分もパリ生活に関しては夢を見ていたのだという事が分かる。これからの一年はその夢の4代償を払う番である。予定どおり一年の給費期間をここで無事に過ごしてしまえばそれだけでももう良い、など弱気な考えも浮かぶ。とにかく病院での研修、という模然とした目的で、一体何を何処まで出来るのか、ということが全く想像出来ないのである。
十月の始めからいよいよ私はネッケル小児病院 (Hopital Necker Enfants Malades) に通い始めた。この病院はバリの第15区のモンパルナスの駅の近くに位置し、小児科を始めとしてあらゆる科が合わさった一大総合病院である。病院自体の起源は18世紀の後半と古いが、精神科が出来たのはかなり後の1975年になってからで、正門のすぐ近くの建物の地下の狭いスペースに外来診療部門があるのみであった。入院が必要な患者の場合は、姉妹病院ともいえるすぐ近くのライネックLaennec 病院の11床の入院施設、ないし他の関連病院(といってもパリじゅうの病院が何らかの形で大学との関連を持ち、ある意味ではお互いにすべて関連病院と言うことが出来るが)に送ることになる。ネッケル病院の精神科ではイヴ・ぺリシエ Yves Pelicer 教授が診療及び医学生や研修生の指導に当たっている。私の大学の元教授が、このぺリシエ教授との古くからの知り合いということで、同教授に受け入れを引き受けて貰うこととなったことは既に述べた。(続く)