2010年10月6日水曜日

フランス留学記(1987年) 第2章「多少理屈っぽい話」(前半)

気持ちの良い秋晴れ。こういう日は、窓のない聖路加の診察室に一日居るのは残念である。
留学記はタイトルからして、23年前にはすでに理屈っぽかったというわけだが、ないようはどちらかといえば、「陰々滅々」という感じである。

私の留学生活は、初めはありあまる時間との格闘でもあった。本来私は自由な時間が持てることが何よりも嬉しいたちなのであるが、それはその時間を使って自分のしたいことが自由に出来る場合の話である。パリではそもそも時間があるからと言って、したい事を即座にする手立てもなく、ぼんやり過ごす分だけ寂しさが募った。休みだからといつて一緒に外出する相手が見当たらない。ラジオをつけても耳に入るのはアレルギー反応を起こしそうになるフランス語だけである。散歩にでも出てみるといいのだが、パリの街はどうしても気楽に歩く、という感じになれない。
日本にいるときは、暇があれば好きな本を二三冊持ってなじみの喫茶店に行き、そこで読書をするなり、眠り込んだりして何時間もねばる事を最上の楽しみとしていた。それは寂しくならずに、かつ自分一人で時間を過ごすには最も適当な時間の過ごし方だった。パリには生憎その様な形で時間を漬せる場所がない。第一街に出るだけで常に自分の身の回りの品が獲られないかと周囲を払い、パリジャン達の人を射るような視線に対抗しようとこちらも精一杯行き交う人を見つめてしまい、結局気が休まることがない。
カフェを訪れる人々は皆カフェ・エクスプレ(エスプレッソに近いコーヒ)などを頼み、それを飲むとさっさと出て行ってしまい、私一人がねばっているのは悪い気がしてしまう。結局おもしろそうな本を書店で求め、早々と大学都市に帰って来てしまうことになる。しかしその後一人で過ごす夜の長さはさすがにこたえた。そんな時私は部屋のべットに寝転がり、よく日本の町並み、そして友人や病院の患者やもと同僚のことを考えた。あれほど単調で平凡に感じていた日本での生活が掛け替えのないものに思えてくる。今すぐにでも帰りたい、という想いが襲ってくる。しかし日本に戻ってしまえば、今度はそこでの生活が色あせて仕舞うことも分かっているのである。それは日本にいるうちに少なからず理想化していたパリでの生活を実際に送っている今の気持ちが何よりも証明している・・・・・・。
私は頻繁にこの事を考えて過ごした。私が自分の落ち着ける場所をはっきりと見出せない以上、この事実をはっきりさせる事から出発する以外に道はないと考えた。恐らく私は期限が来たらフランスをほぼ永久的に去るのであろう。その時は、日本に帰ったら必ずここでの生活を掛け替えのないものだったと考えるようになるであろう事を十分承知した上でパリに別れを告げるのだ。そう考えて見ると、これほど重苦しいパリの毎日なのに、一年後の帰国もまた耐え難いものの様に思えるから不思議である。実際に目の前にあるもの、体験している最中のものの貴重さが私達はどうして見えなくなって仕舞うのであろう。いや、見えなくなること自体は無理もないのかも知れない。しかしこの見えなくなっているという事実そのものさえも見失い、様々な不幸が生じる。
同じような問題を対人関係に置き変えてみればどうだろう。いつも顔を突き合わせている相手との間で体験する不快な想いの恐らく半分以上は、相手が遠く離れているか、または近い将来の別れが前提となっている場合は決して生じない性質のものなのである。しかしこれらの事を理解していても、日本を自分にふさわしい国として心の底から感じるとしたら、それはきっと私が日本以外のところに暮らしている時なのである。但し日本をその様にこの上ないものとして評価したことがある、という記憶は私のこれからの日本での生活に何らかの潤いを与えてくれるに違いない。なんの事はない、日本を見出すことの為にフランスにいるようなものである。
パリでの生活のかなりの時間を一人で過ごさざるを得ないため、その手段を私はあれこれ捜した。私がまず始めたのは大きな書店を捜すことであったが、その結果私はかなり満足のいくものだった。パリには東京の幾つかの、あたかもデパートのような書店はないものの、カルチエ・ラタンの周辺に幾つかの大きな書店を見付ける事が出来、そこにはどれもかなりの大きさの精神分析関係のコーナーが設けられていたからである。そこにはP.U.F.社、パイヨ一社、プリヴァ社などから出ている沢山の書籍がならんでいて、改めてこの国の精神分析に対する関心の深さを感じさせられた。
中でも印象的だったのは、フロイトの、初期の日本では翻訳されていないようなコカインについての論文、ライヒ、フェレンチ等の精神分析の創世期当時の人々の論文がのきなみ翻訳されて書棚に並んでいることだった。なにしろフロイトと親交のあったかのフリースの、「鼻と女性器の関係」等まで翻訳されて書棚に並んでいるのである。日本でその下訳の一部をさせて貰っていたウイニコットの論文集などはかなり前に翻訳され、既に普及版として安く手に入れる事が出来た。この様な大きな書店で時間を潰すことは異国での寂しさを紛らわすのにはかなり役にたった。
しかしやがて私はもっと旨いパリでの「遊び方」を見出した。それはバリ四区にある、ポンビドゥーセンタ一の中の大図書館を利用するということである。ここの図書館は20~30万冊と蔵書が豊富で、しかも何もかも手続きの面倒なフランスでは珍しく、本の自由な閲覧が可能であった。館外貨し出しは出来ないものの、数台備えられたコビー機を使って必要な部分を簡単に手に入れる事も出来る。こうしてパリについて一月経った頃にはある程度は満足の行く生活のパターンが出来上がつて来た。午前中はとにかく病院で過ごし、午後は図書館通い、そして早めに大学都市に戻り本を読んだり、ラジオを聞いたりして時間を過ごす、というわけである。食事は徹底して、大学都市、ないしパリじゅうに幾つもある大学食堂でとる。そこでは日本円にして200円余りを出せば、余りおいしいとは言えないまでもたっぷり栄養を取る事が出来た。
私は食べ切れないデザート類、及び取り放題のパンを次の朝の朝食として持ち帰る、という東京に居た時は考えられない程の倹約精神を発揮した。そのため始めは到底足りないと思っていたフランス政府からの給費(月3600フラン、日本円にして9万円ほど)だけでもなんとかなって仕舞うから不思議だ。それにパリで経済的に、しかも自分なりに満足出来る生活が出来る事が分かると、あれほど窮屈で、味気無いと思っていたパリの暮らしも、少しは親近感を覚えてくる。パリで暮らし始めてしばらく経っても、人と接触する度に自分がここでは全くのよそ者である、という感じを味わわされる。日常生活のあらゆることが自分の外国人としての立場を突き付けて来る。一体自分の生まれた国を離れて異国に暮らすということはどういう事であろうか?そもそも自分はこれから一体何をしようとしているのか?
ここでの生活に慣れることは、果たして自分にとってある意味での前進なのだろうか?それとも日本の事情から遠ざかっているという意味では後退なのか?など際限もなく考える毎日である。日本に居れば同じだけの時間を使ってもここにいる時とは比べられない程の仕事をこなすことが出来、沢山の情報を得ることも出来る。日本にいるとき、医局のある同僚は、「ぼくはなるべく外国語で本は読まないことにしているよ。それだけ時間の浪費をしてしまって自分が馬鹿になるような気がしてね。」といい、私は驚きをもってそれを聞いたものであるが、今となってはそれも少しはわかるような気がする。パリでの自分の生活ぶりは、右も左も分からず、すべてを周囲に依存し、まるで子供にかえった様なものである。日本で仕事をし、そこにある程度の自負を感じていた時期があったということがむしろ不思議に思えてくる。自分が病院の中である仕事をとりあえずはこなしていた、ということが実感出来ないのである。つまりはそれだけここでは何も責任を与えてもらえず、低い自己価値感を持って生活することを余儀なくされているということであろう?(続く)