2010年8月31日火曜日

治療論  その2   直面化を促すのは、不可知的な「現実」である

今日も暑・・・・・以下同文。
小沢さんワッチング:もう小沢さんはヤル気である。そして私の理解では、小沢さんは怒っていて、誰も彼を止めることはできないということだ。菅さんにあそこまで言われて、彼は怒り心頭に発しているであろうし、彼はそうなると大人しくしていることなど不可能だろう。

プライドを傷つけられた時の怒りはそれこそどのような行動も取ることができる。ある意味では怒っている小沢さんはものすごい行動力を示し、水を得た魚のような状態なのであろう。一番活き活きとしている、というべきか。そしてそれは基本的には相手を破壊して、党を破壊しても止まらないかも知れない。怒りは蜜の味、とは彼のためにあるようなものではないか。

今日は堅苦しい治療論だが、小沢さん行動パターンを見ていると、結構そこに病理を感じる。しかし彼は決してカウンセリングなど受けることはないのだ。
禁欲原則の話にはいくらでも続きがある。誰が患者に直面化を促すか、という問題だった。
こんな例を考えてみよう。私がある患者Aさん(30歳代後半の男性、とでもしよう)と治療関係にある。彼は常にあるジレンマに悩んでいるとしよう。(ちなみにこれは創作である。私の現在のクライエントさんの誰も、自分のことを言っていると思われないような例にする。)Aさんはいつも自分の身の丈より一歩高い目標を持ち、それが実現するつもりになり、実際に挑戦しては失敗して失望することを繰り返す。そして「自分はどうせ駄目なんだ、取るに足らない存在なんだ」と落ち込む。その挑戦とは、たとえば就職活動でも、論文を応募するのでも、異性に声をかけるというのでもいい。いつも期待をふくらませては失敗し、死にたくなってしまうという繰り返しのAさんは、自分を見つめ直したくて私との治療を開始したとする。

治療者として週に一度Aさんと会っていると、おそらく彼のこのパターンが繰り返されていくのを私は目のあたりにすることになる。彼は理想的な自己イメージを思い浮かべ、失敗をして落ち込むというプロセスを実況中継のように報告するかも知れない。そのプロセスを彼と一つ一つ見ていく。その際、分析的な立場だったら概ね禁欲原則に従って、Aさんが夢を追うことを勇気づけたり褒めたりせずに、彼が陥っている病理、例えば現実の自己像を否認する傾向、それにより他人を見下したい願望や、一気に立場を逆転させて勝者になりたいという願望を指摘する、ということになる。確かに教科書的にはそれが治療の王道なのだ。

さてAさんの治療者としての私はどうするだろう?おそらく20年前ならこの禁欲原則に従った治療を行ったかも知れない。でも今なら違う。どのように違うかはよくはわからない。ただ禁欲原則とは全然違う関わりを持つであろうことは確かだ。

そもそも30歳代後半まで繰り返したAさんの行動パターンは、治療などで大きく変わりはしないと考えたほうがいい。治療者との出会いがよほど大きなインパクトとなり、彼の人生観を変えるに至るのでない限りは同じことが続くだろう。そして私がAさんに「また同じ過ちを繰り返そうとしていますね。」と指摘することは、おそらくそれが直接間接に周囲から指摘され、そして何よりも彼自身がそれを自分自身に呟いているであろうから、あまり新しいメッセージとして彼の心に響く可能性は少ない。
私はおそらくAさんの行動パターンをいろいろな角度から見ようとするであろう。Aさん自身も、周囲の誰も思いつかないような説明の仕方を試みるかも知れない。そのプロセスでAさんが本当は人から評価されたことがなく、その為に他人をあっと言わせたいと思い、本来は自分が不得手なことにまでも力を注いでいるということが見て取れたら、私はAさんが自分らしさを自然に発揮できるような能力を一緒にさがそうとするかも知れない。彼が評価してもらえなかったことを評価することもあり得るだろう。そしてもちろん彼がどうしても見ようとしない問題点があったら、そのことも指摘するだろう。要するに…… 治療はとても「禁欲原則」で縛られてしまうべきものではないのである。

一つここで明確にしておきたいのは、Aさんが自分の行動パターンを変えるほどのインパクトを与えるのは、残念ながら治療者の言葉ではない可能性が高いということである。治療中にあっても、Aさんは同じ問題を行動に映し続けるであろう。彼はAさ結局は同じ行動パターンを繰り返しながら、現実と行き当たって学ぶことを通して変わっていくのである。治療者はそのプロセスを一緒に体験し、考えることしかできないというのが正直なところなのだ。
最後に小沢さんがカウンセリングをしていいる場合を考える。やはり今回のような、民主党を壊しかねない行動を抑えることなどカウンセラーには不可能なのであろう。彼は現実に突き当たってもうこれ以上動けないところまで突き進み、何かを掴みとり、そして何かに失望する。カウンセラーはおそらくそれを見守ることしかできない。でも治療者が患者の人生を変えようと思うことそのものが、僭越と言われても仕方がないことなのだ。
ところで「これじゃ治療者の役割などないのではないか!」と言われそうである。その人にはこういう言い方をすることにしている。家、貴方にもチャンスがあります。貴方の治療者としての関わりが「現実」となれば、それは治療的なインパクトを持つ可能性があるのです。