2010年8月30日月曜日

治療論 その1 禁欲原則の功罪

「毎日、暑 ……」 以下同文。

●●さん。いつかはフランス留学を再開いたします。一応見出しとして出ている以上、忘れないことになっています。

ある高名な分析家の先生が次のようなことを書いてある。「精神分析とは患者の願望を満たしてはいけない。褒めてもいけない。治療者は患者さんが見ることを避けていた無意識内容に直面化するのを手伝うのだ。そうして患者さんと一緒に一番辛い体験を扱っていくのである」。いわゆる禁欲原則の考え方である。でもこれって、治療本来のあり方だろうか?何かが違う。それが私の立場である。
この問題、どうでもいいと思っている治療者も多いが、私には無視できない問題である。精神分析を一生の仕事と考えていた私としては、治療とは何か、人を助けることとはどういう事かについて、常に考えてきたが、このフロイトの原則をどのように捉えるかはもう30年来の重大な問題である。フロイトが100年前に提案した原則など、どうでもいいのではないかと思うかも知れないが、治療者の中にはこの原則をかたくなに守ることで、本来の治療者としての力を発揮できない場合があるので深刻なのである。
日常生活での体験も、学生やバイジーさんとの体験でも、私は厳しいことをほとんど言わないし、また言えないでいる。また相手を正直な気持ちで褒めたり評価したいようなことがあれば、おそらくかなり頻繁にそれを口にすると思う。つまり禁欲原則とは逆である。それはなぜだろう、と考える。それで一つ思い至ったことがある。そこでこんなテーマで書いているのだ。
もちろん学生やバイジーさん、患者さんに注文したいことは時々ある。「それはちょっとどうかな」と思うことも実はよくある。それを言わないとすれば、その一番の理由は、それにより患者さんやバイジーさんが落ち込んでしまうからだ。もちろん患者さんが一時落ち込むことは、その後の成長につながるかも知れない。でもそれが一種の抑欝的な反応を引き起こし、その間患者さんの精神的な活動が冷え込んでしまうことの方がより心配になってしまう。他方長所を指摘し、評価することは彼らに生きるためのエネルギーを与え、彼らが自らを見つめるための精神的な余裕を持つことにも繋がる。そう、治療とは相手の自己愛をいかに守りつつ治療者としてのメッセージを伝えるか、という綱渡りなのである。禁欲原則とは、そこら辺の微妙な問題をかなり大胆に切り捨てた原則なのだ。