2010年8月24日火曜日

怒らないこと その2. 龍馬の話に戻るまで

昨日の続きである。ちょっと長くなったが。

この世に強者、弱者は常にある。社会的な地位や性別や年齢に大きく左右はされるが、一応はそれとは独立した形で存在し、人の間に序列を生む。どこかに明記されているわけではなくても、社会の中で人はそれを感じ、推し量ろうとしている。時々顕著に表れることがある。エレベーターに乗ったり降りたり、記念写真を撮るときの立ち位置を決めたり、飲み会で座る場所を決めたりする時に必ず出てくる。オフィスの大きさ、窓への近さ、などにも出てくる。これは観察していて面白いくらいだ。

もちろん動物界ではもっとはっきりしている。猿山などを見ているとわかる。こちらの方は力関係が一目瞭然となる。ボス猿以下はっきりとした序列がある。日本の政治家を猿山に入れたらどうなるか? いわゆるαメール(ボス猿)にはだれがなるだろう?時の総理大臣か?それともやはり小沢さんがなるんだろうか?ボズざるの黒幕なんていないからな。いやその後ろに中曽根さんあたりが控えているかもしれない。長老というわけだ。でも長老がぼんやりしていると、若手のサルが雌にちょっかいを出す、ということもあるが、それは人間社会でも同じだろう。

しかし人間の場合は少し複雑だ。能力にはいろいろ種類がある。だから時と場合により誰が強いかは入れ替わる。常に強者、という人はむしろ少ない。

たとえば政治家を集め囲碁の大会をやったら、とたんに与謝野馨さんあたりが大ボスになり、小沢さんは裏工作が効かなくなって与謝野さんに頭が上がらなくなってしまうとか。(まてよ、確か最後の対局では小沢氏が勝ったんだっけ?)強者か弱者かは、ほんのちょっとしたことでも揺れ動く。昨日まで威張っていた派閥の長が、ちょっと週刊誌にたたかれただけで、それまでの「強度」が何ポイントも下がってしまったりする。
夫婦の関係だって、日常生活では奥さんのほうが強者で、ご主人は奥さんの顔色をいつもうかがっていても、実は金の出し入れに関しては主人が完全に支配していて、奥さんは何も言えない、ということもある。
しかし状況や関係性によっては、前提的な強者、弱者が決まってしまうのが問題だ。職場や学校、親子の関係などでは、強者、弱者の関係が絶対的になり、一方が他方を抵抗が出来ないくらいねじ伏せてしまえることがある。するとその関係は最近よくいわれる「対人関係上の外傷」、つまり虐待とかネグレクトとかパワハラ、セクハラなどが起きる素地となるのである。

このように強者と弱者の関係というテーマは、実は外傷の問題、搾取の問題と密接なのだ。そして外傷が人間関係のいたるところで起き、それを生みだすような強者、弱者の関係は、それこそ人間関係の細部にいたるまで網の目のように張り巡らされている。
動物の世界でもそうである。というより、動物ほどシビアに強者弱者の関係で動いているものはない。先ほどはサル社会を例に出したが、強者、弱者の関係性の中で生き残ったのが、いま地球上にいる生物だと考えればいい。(うちの犬のチビだって私のことが怖いくせに、カミさんのほうが私より強者であることを知っていて、私が怖い顔をすると、すぐ彼女の陰に隠れるのである。悔しい。そのくせカミさんが留守のときは急に態度を変えて尻尾を振ってくるのだ。)人間は洗練されているようでいて、実はこの他者との力関係にものすごく敏感であることは変わりない。よく「空気を読む、読まない」というが、読むべき一番のものは、この他者との微妙な力関係であろう。

私が「怒るべからず」、と言う時、それは怒ることが、現実の持つ不可知性を無視し、相手を白か黒かで決めつけるという傾向に基づいているからだ。そしてそれはたいていは、自分が恥をかかされて、自己愛を傷つけられたことの反応として生じるのである。
しかしこの理不尽な怒りは、自分や仲間を理不尽にいじめてくるような強者に対しては、むしろ積極的に向けなくてはならない。それは強者からのいじめやハラスメントから自分や仲間を守るためには、必要なものなのだ。そのときは相手の事情とか、相手への共感はむしろ邪魔になる。相手と戦う際は、不可知論は無意味であり、それに基づく「怒るなかれ」はかえって身を危険にさらしてしまう。強者と戦う際はむしろ善か無か、白か黒かの悉無律的な原則によらなくてはならない。だってそうではないか。自分を襲ってくるライオンにライフルを向けて引き金を引こうとしている瞬間に、「でもライオンも撃たれたら痛いだろう」などと思っている間に、ガブリ、とやられてしまうからだ。

そこで龍馬の話にようやく戻る。限りなくやさしい彼は、しかし自分より強い存在には常に戦いを挑む。あるいは弱者でも、それが自分よりさらに弱いだれかをいじめている場合には彼は黙ってはいないだろう。強い相手に怒るのは、大抵が勇気ある行為だ。それは自分や仲間の身を守る行為であるし、身を挺しても仲間さえも救おうとするその「余剰」の部分だけ、愛他的である、ともいえる。(ただしそれを愛他性と呼ぶなら、人間より下等なはずの動物の世界は、その愛他性に満ち溢れている。子孫や仲間のために親が自分を犠牲にするという行動はむしろスタンダードでさえある。)

強い相手に対する怒りは、わが身や仲間を守ろうとする、おそらく唯一の正当な怒りといっていい。怒りそのものはあいかわらず理不尽なものであるが、それでも正当なものである。正当なる理不尽さ。平和主義者のように描かれている龍馬は、権力には常に牙をむく。その時は彼の平等主義や価値の相対性や不可知論的な世界観は停止し、スプリッティングの権化となって、戦いに命を懸けるというわけだ。
こうして昨日の最初のテーマに戻る。「怒らないことと、戦うことは矛盾しない。」

ちなみに龍馬伝に描かれている人物像を見て面白いのは、限りなく優しい龍馬が、むしろその分だけ、権力と言う名の強者に対して挑戦的であるということだ。あるいは逆かもしれない。戦う相手を知っていると、守るべき相手には優しくなれるということか。
あのわかりやすい素人受けのする龍馬伝を見て、結構ハマってこんなことを書き連ねている私も、かなりミーハーだと思う。でもそれにしてもやはりフクヤマは許せない気がする。