2010年8月25日水曜日

怒らないこと その3. 怒らないより大事なこと

今日はぎりぎりの更新であった。相変わらずの暑さ。ただ今日は●●さんが、「今日は月が綺麗」、と教えてくれた。
民主党というコップの中の嵐は相変わらずである。小沢さんて面白いな。「自分に対する立候補の要請については・・・・・」などと言っている。「この政治塾は、下世話な政治の話はしない」だって。この種のレトリックは生理的に受け付けない。

こうして小沢さんに対して批判的なことを書くのはなぜか。彼が強者で、私は弱者だからだ。弱者は強者を批判していい。弱者は強者からの蹂躙に身を守る手段を持たないから(というよりそれが強者、弱者の関係の定義だからだ)批判することが出来る。強者は傷つくのか?トラウマになるのか?私が小沢さんを批判して、その言葉を耳にした小沢さんが心に傷を負う、という関係であれば、既に彼は私(そして国民の大多数)に対して強者という立場にはないということになる。もし小沢さんが何らかの都合で、私の外来にやってきて、眠れないから薬を処方して欲しい、ということになり、患者さんになったとしたら、私は小沢さんに向かっての言動には、細心の注意を払い、傷つけるような言葉など一切言わなくなるだろう。それは私が彼に対して権力を乱用できる立場、すなわち強者になるからだ。
「汝怒るなかれ、ただし権力に対しては別である」って悪くないことだ。いかりや攻撃性は、依然として私たちの人生で、その正当な発露を持っているということだ。ただし・・・・・強者と戦うことは、者すごいむずかしいことでもあるのだ。

怒らないことについて書いているうちに、怒らないことより、戦うこと、の方が大切である気がした。だって怒らないことはそんなに難しくないが(言った、言った!)強い相手に戦いを挑むのは、勇気がいることだからだ。弱者に対して怒らないことと、強者に対して戦いを挑むことのどちらが人に貢献するかというと、恐らく後者ではないか。というのも強者をくじくことで恩恵を被る人は、自分だけではないからだ。というよりは強者と戦うことは、人のためにもなる分、自己犠牲的な行為だからだ。「蟹工船」なら、搾取するボスに戦いを挑むことは同時に、同じ立場にたって苦しむ仲間を解放することになる。
ところが私たちは怒らないで泰然自若をしている人の事を、強者に戦いを挑む人よりも尊敬し、理想化する傾向がある。すこしおかしな話である。何かそんなことを考えるようになってきたのは、とりあえずこのブログでこの問題を追っているからである。