2010年8月17日火曜日

不可知性 その9 自分を不可知と信じることで、創造性が増す(かも)。

ブロク読者の方からのコメントに、自分自身に関する不可知性というテーマがあった。大事な問題である。もちろん人間は自然の一部であるから、複雑系に属し、したがって不可知なのだが、問題は「自分がそれを知っているのか」である。
私は自分を不可知と知るというのは一種の才能かもしれないと考えている。そうすることで、自分が不可知性をはらんでいることを逆手にとり、創造性として発揮させることも可能かもしれないと思う。生産性、創造性に結び付かない不可知性とは、いつ間違いを犯すか予想不能、いつ自分の決心が覆るかが不可知、ということでなんの面白みもない。

そう考えると、将来どのように変わっていくかが非常に不可知的で、またそこに大きな可能性と創造性をはらんでいるのが、幼年期ということになる。幼児とは何しろ幹細胞のような存在なのだ。具体的にいえば、彼らの脳にはまだプルーニング(剪定)される前の膨大な神経細胞間のコネクションが存在する。彼らの脳の中でどのような構築が行われるかは、まさに与えられた刺激に依存する。

だからタイムカプセルにのってクロマニオン人の幼児を現代に連れてきて、大阪の幼稚園に入れたら、半年でコテコテの大阪弁をしゃべる浪速っ子になるだろう。(大阪の子供、というところに、他意なし。)間違ってクロマニオン人のおじさんを連れてきて、オジサン社会に入れたら・・・・・。「アリガトウ」「オナカガスイタ」「ネーチャン」くらいは片言で言えるようになるかもしれないが、一生クロマニオン人のオジサンとして終わるはずだ。

不可知性といえば、このブログ。何しろ私は4月までは「更新は嫌いだ」と言って、月一度の更新がやっとだったのだ。しかしIBMのホームページビルダーを見放して、グーグルのブログのツールを遊びで使い出してから、自分でも予想外の「毎日更新」が続いている。私自身こうなることは知らなかったのである。今では結構日記がわりになっているではないか。これも私にとっては不可知である。ただしこの私の例は、「いかに私が不可知的か」、というよりは「いかにイーカゲンで行き当たりばったりか」という証明になってしまったようである。

ここでイチローの例を挙げたい。(行き当たりばったりだなあ。)

精神科医の目からは、彼がアスペルガーの傾向があるかどうかは極めて興味深いことだ。確か去年のNHKの新春の「プロフェッショナル仕事の流儀」でイチローの特集を放映した時は、録画までしてみた。その結果私なりの結論は出たが、まあそれについては、言葉を濁しておきたい。彼が7年間、自宅で昼食をとるときは、奥さんの作ったカレーばかりという有名な話からもわかる通り、彼はかなり徹底して自分の生活を決まりどおり、あくまでも予想可能な形で構成していくというところがある。一番不可知性をきらい、またそれから遠い存在の人という感じなのだ。ただしではイチローはどうしてカレーなのか、とか、どうして何年間もあの黒バットを使い続けているのか、というところになると、それがかなり行き当たりばったりでそうなったらしい。そこのところが不可知的なのだ。バットなど「持ってみたら、ぴんときた」とか言って、それだけで延々使い続けているのだ。(あのバットの職人さんも気が気じゃないだろう。)

イチローの話で一番ブッ飛んだのは、最近バッターボックスで立つ位置をホームベースから一気に下げてみた、という話だ。バッターにとって、どこに足を置くか、バットのどこのあたりを握るかなどはそれこそこだわりぬいておかしくないであろうが、それをイチローは、ある日ふとしたきっかけ、それもよくわからないきっかけで変えてしまったという。それは野球など素人の奥さんに「少し遠くに立ってみたら?」という一言を言われた、それだけだったという。これまで延々と続けたことが、それほど予測不可能な出来事により、突然方向性を変える。そしてそれがおそらく彼がタダの強迫神経症とは違う点なのだろう。そしてそれがイチローが一見規則でがんじがらめの生活に不可知性を取り込んでいるやり方なのである。(続く、かも。)