2010年8月18日水曜日

不可知性 その10. 不可知性は快楽とも関係している

このブログをやっていると、使い方を覚えると、少しずつこのブログが「ひとなみ」に見えてくるのが、面白いといえば面白い。昨日は内容をトピックごとに分ける、ということが出来るようになった。なれている人には当たり前のことかもしれないが。

一昨日このブログで、「私たちは不可知性に耐性ができている」、と言ったが、もう少し言えば、不可知性を求め、あるいは楽しんでいるところがある。不可知性、というとネガティブな響きがあるが、「新奇性 novelty 」という言葉に言い換えるのなら、心理のタームに出来るので皆さんもご存知だろう。「新奇好性 novelty seeking」 、となるとこれは、パーソナリティの一つのディメンションを意味する。このシンキコーセイは、結構重要なのだ。対人恐怖の視線からは。健常者(すなわち対人恐怖でない人)特徴なのは、新しいものに、あまり抵抗なく、スーッと近づいていく人たちなのだ。「隠れ対人恐怖」の私としては、新しいものに対しては、まず「怖い」、というほうが先に立ち、次に「でも面白い」、となる。心の中で起きる反応としては、この順番だ。さて、不可知性を求めている、ということは要するに世界が全部は分かっていない、知らないことや新しいがいつ起きるかわからない、という状況が、多くの私たちにとって快感でもあるということだ。私たちがそれに興味を持つだけでなく、それを実際に追い求めるところがある。私たちがある体験を快楽と感じるとき、過去に快感を引き起こした体験だけでは十分でない。今展開していることがどうなっていくか本当のところはわからない、という新奇性が、その快感を増す、ということになる。このことは凄く当たり前のことかもしれないが、指摘された時になるほどと思った。ただしこの新奇好性、つまり新奇なものを快感と感じる傾向が発揮されるためには、条件がある。まずは不安が大きくないこと。新しいことは当然不安をも呼び起こす。社交不安の人が新しいことにしり込みするのは、この不安の方が快感よりも勝ってしまうからだ。もう一つは、心のエネルギーに十分な余力があること、言葉を代えれば鬱でないこと。鬱でないことは、新しいことが快感中枢を興奮させる上でのかなり重要な条件なのだ。欝の苦しさの一つは、新しいことが持っている快楽的な側面がそぎ落とされて、不安しか起こさないからである。新しいこと、知らないことは不安の源泉以外の何ものでもなくなってしまうのである。新奇好性のある私たちは、この現実に生きていて、予想していなかったこと、たとえば世界各地で起きている様々な災害や事件などを結構楽しんでいることになる。あるいはそれらにより好奇心を満たされることで生きているというところがあるのだろう。考え方によっては非常に不謹慎な話だ。たとえば、インターネットのニュースの見出しで「アメリカのカンザス州で竜巻が起きて沢山の家が飛ばされた」などというニュースを見ると、私は「ふーん」とか言って若干興味をそそられて「詳細を読む」をクリックする。数年前まで実際にカンザス州に住んでいたころは、身の危険を感じておびえなくてはならないようなこのニュースも、わが身から遠ざかれば、興味深い(面白い、とは言っていない)出来事として退屈さを紛らわせるようなものになってしまう。読み直してみて、何かテーマに沿っているようでずれているような気がするな。まあいいか。ここら辺にこだわっていると本当に何も書けなくなる。

明日のテーマ: 不可知性を意識すると、人の悪口は言えても、批判ができなくなる

(宇宙人の悪口は言えても論駁できない。)