2010年8月10日火曜日

不可知について その4.不可知性と人生

森元首相のご子息。うーん。コメントのしようもありませんね・・・・。息子に父親の後を継がせるという目論見が、これほどまでにうまくいかないこともあるのだ、という例のような気がします。むしろ父親の方の責任ではないでしょうか?

ともかくも、不可知性というテーマで書いて今日で4回目であるが、どうも断片的にしか伝えられていないと思うのは、やはり私がこのテーマについて感覚的にしか理解していないからだろうか。しかしこの考え方は何らかの形で自分の役にたっているのも確かなのだ。というよりも、モノの見方を根本的に変えてくれた気がする。
基本的に私は臨床家であるので、実際に心の問題に役に立たないものには、個人的に興味がわかない。ノンフィクションには没入できても、小説にはできないというのと似ている。この世が不可知である、という認識は実生活にとって有効である必要があるということだ。
現実は不可知であるという認識が私達の生に意味を持つとすれば、それが死生観にかかわっている部分だろう。私たちはいつ死ぬかわからない、ということを根本的なレベルで受け入れておくこと(もちろんそれができたら、であるが)で、私たちの人生の各瞬間はより豊かなものに出来る可能性が生まれる。それは「今日は生きていられる」と言うことが満足感を与えてくれるからである。
不可知の反対は、可知だろうか?つまり将来のことがすっかりわかっていると言うこと。あるいは物事には理由があり、それを突き止めることで自分や他人の将来を変えられる、という考え方だろうか? しかし不可知の反対としての可知に、たとえば「自分が死ぬ予定」は決して含まれないはずである。もし含まれているとしたら、「自分は○月×日に~の事情で死ぬ」ということを知っていることになるが、その時まで生き続ける絶対的な保障などなにもない。

結局不可知の反対は、「何も考えない」「将来のことについては考えを先送りする」ということになるだろう。でもそういう人たちは、一見気楽なようで、実は周囲の人たちにとっては一番厄介なのである。なぜなら彼らは「何も考えていない」はずなのに、自分の人生に過剰な期待やないものねだりをし、それがかなわないとどんなに自分が不幸かについて嘆くのである。「何も考えない」人は運命を受け入れることが得意ではない。あきらめる、受け入れる代わりに自分の「不運」を託つことになる。

人間は年をとるに従って、さまざまな意味で死に近づいていく。持病がどんどん増えていくし、一昔に出来たことが、ひとつずつ出来なくなっていく。それでも格別落ち込まずに、それなりに幸せを感じつつ生きていくためには、歳を重ねるということは「体が衰えて、病苦が増えていく」と言うことを初めから受け入れ、人生の計算に入れておかなくてはならない。それにより「自分は不幸だ」という感覚を和らげることができる。

これはたとえば目の前のケーキを食べる、という比喩を用いて説明できるだろう。目の前のケーキを食べていくに従い、残りは少なくなっていく。しかしわたしたちは普通は「ああ、ケーキがあと一口しか残っていない。何ということだ・・・。」と不幸のどん底に陥ることはない。私たちはケーキが残り少なくなるに従って、もうこれ以上のケーキを期待してはいけないという心の動きが働くのであろう。ケーキが残り一口になったときには、「もう残り一口しか食べたくない」「これ以上望んでもなにもないのだ」ように私たちは自分たちの欲望を調節していくのだ。それと同じように、人生も終わりに近づくにつれて、「もう十分に生きた」「これ以上生きることを望んでも不幸になるだけである」という風に考えが変わっていくのが理想なのである。

さてここまで述べても、不可知性を受け入れることは死への不安や苦しみを軽減するだけなのか?と言われそうだが、それでも立派なものではないだろうか? 覚悟のできていない人生(実は私も含めて、大抵の人は、みなこのレベルだろう)は、実は毎日の出来事に一喜一憂し、どうでもいいようなことに悩み、苦しむものである。「楽しい!生きていてよかった!」と感じられるのは、おそらく人生で数えるほどしかないのだろう。人生における快をプラス、不快をマイナスとして平均してみよう。おそらくかなりマイナスに傾くというのが実態ではないのか?それをそう感じさせないのが、先ほどの「不可知の逆」であり、夢想であり、考えることの先送りではないだろうか?
今日のテーマは書いていて深刻で、とてもギャグが出る余裕がない。
ホフマンの「精神分析における儀式と自発性」
ところで不可知と言いながら、私たちは死ぬと言う運命は可知であるといっている。死ぬと言うことは可知だとしても、その後自分におきることはまったく不可知であると言うことを考えると、これも不可知に入るのだろう。
私に不可知についての考えを解説してくれたのはホフマンの本であるが、彼は不可知を「自分が死ぬと言う運命にあると言うことを除いては、何が起きるか少しもわからない」こと言い表している。必ず死ぬということしか確かなことはないのだが、いつ、いかなる形でそれが起きるかは、これまた不可知というわけだ。