2010年8月9日月曜日

不可知性 その3.

東京では久しぶりにちょっと涼しさを感じる。一息ついた感じだ。
不可知性の話であった。例えばこのブログ。何がどうなっていくのかわからない。だからやっていられるというところがある。決められたことを書くのは、原稿の執筆だけでたくさんである。

不可知とは不安を掻き立てるばかりのものでもない。ある意味では自由が保障されているところに成り立つということだ。自由でなければ、不可知を不可知のままにしておくことができない。一家の主婦であれば、「今日の晩御飯の献立 ・・・・・ ・おなかがすいたら、冷蔵庫から何かみつくろって作ればいいや・・・」では済まされない。今日の夕食はこうである、と不可知の要素を減らさなくてはならない。不可知の中に身をゆだねることは、だから気楽で自由なことでもある。

不可知とは興奮させることでもある。私がそもそもこのことを意識しだしたのは、もう10年くらい前に読んだ、その頃はネット上の書き手に過ぎなかった田口ランディの文章である。何かミステリーか何かについての文章で、最高のエンディングは、最後まで読み終えた際にズドーンと不可知の中に突き落とされ、その中で陶然とさせる様なものだ、と書いてあった。

今田口ランディについて検索すると、もう彼女は売れっ子作家である。相変わらず歯切れのいい文章。こんなものを出している。「不可知への冒険 メイキング・オブ・マージナル 第一回 偉大なるおろか者たち 田口ランディ 平成21年8月15日発行 青木誠一郎 角川学芸出版」結局不可知は、彼女にとって続いているテーマであるらしい。

もちろん魅力的な不可知性とは、全くの混とん、というわけではない。第Ⅰ秩序のないものは、私達の感覚としてすら入力されない。ある程度形をなしたものの含む混とん、ないしは完全な形を誇っているかのようなものの持つ二重性であったりする。これまでは悪と決め付けていた登場人物が実はそうとも言えなかったことを知った時。これまで予想していた犯人が突然見えなくなって終わる時。そしてもっとその奥にある世界の広がりを感じて、それを知りたくなる。ちょうど絵画で言えば、原色とは程遠い、さまざまな色合いと陰影を含んだキャンバス上のオブジェに吸い込まれるような体験。

不可知の快は、その意味では恋愛の初期の体験とも似ているかもしれない。相手の私生活のほんの断片から際限なく想像が膨らんで、もっともっと知りたくなる。(これは長年連れ添ったカップルとちょうど逆である。こちらは相手の個人的な事情をほんのちょっとだけ垣間見ても、その意味するところ(意味付けするところ?)が分かりすぎて、むしろもうたくさん、という感じか。)