2010年8月15日日曜日

不可知性の7. 人を対象と見るか、モノと見るか?

今日は久しぶりに日中買い物に出かけたが、暑さのピークは過ぎているのではないかと感じた。そしてあとで知ったのは、久しぶりに今日東京は真夏日であったということ。やはり暑さに慣れてきた、ということなのかも知れない。
昨日の宇宙人の話、精神分析的にはこんなふうにつながっていく。

まず人間が生まれたとき、母親はまだモノにしか見えない。乳房はオッパイの出るものでしかなく、赤ちゃんは噛み付いたとしてもお母さんが痛がることなど心配しない。(ただし幸運にも赤ちゃんには最初は歯が生えていない。Thank God!)ところがそのうち母親は「対象」になる。自分と同じ、痛みを持った人に見えてくるというわけだ。(精神分析では、対象とはヒトの事を意味する。)

さて分析的(少なくとも伝統的な意味での)でいう対象とは、なんといっても「内的対象」なのだ。つまり心に抱いた相手のイメージ、自分が想像している相手なのである。実際の母ではなく、瞼の母、と言ってもいいかも知れない。よくよく考えると、私たちは相手を人間として見ている時、必ずと言っていいほど「内的対象」として扱っている。Aさんと付き合う、とは自分が「Aさんとはこんな人だ」と信じているイメージと付き合っているというわけである。そしてAさんに腹を立てたり、優しくなれたりするのは、全部Aさんのイメージを心のなかで(自分勝手に!)作り上げているからだ。

営業担当が「馬鹿者、なぜもっと外回りの数を増やせないんだ、ナマケてるんじゃないか!」と上司に叱られる時、上司は「こいつは手を抜いて楽してたんだろう。どうせどっかの喫茶店でアイスコーヒーでも飲んで時間を潰してたんじゃないのか?」というイメージをいだいて、カーッとなるのである。

考えれば、相手に共感する、相手を理解すると普通考える時は、相手を「対象」としてみるということである。相手に対するイメージを自分の心のなかに作り、わかったつもりになるということだ。しかしそれで本当にわかったことになるのだろうか?精神分析では、それより先の「あいてをわかる」を考える。それは「相手がわからない」つまり自分の想像を超えている存在であるというレベルでの「わかる」ことである。 

ここまでのプロセスを整理すると、相手をモノと見ることから「対象」とみることに移り、そこから再び「モノ=宇宙人」に見ることへと至るというプロセスが考えられるということだ。

相手を分からない存在として分かるというのはどういう事か?これは私たちの生活の中では結構難しい芸当であることがわかる。突然飛来したUFOから降りてきた宇宙人に、ニコニコ近づいて「こんにちは」と握手を求めるくらいに難しいかも知れない。現実には、自分には想像ができない、気が知れない、とんでもないと思われる他者を撃退したり無視したりすることなく、それを認め、その声に耳を傾けることである。

このプロセスは例えば子供の旅立ち、治療の終結、弟子の独立などの際にも生じる。親からの教えやメッセージを「もうたくさん」と感じて子供は出て行く。子供が生き始めている世界は、普通は親の想像をすでに遥かに超えている。その子供を親は想像できない。自分を超えた世界にいる子供を理解出来ないのがそもそも当たり前なのだ。その子供を快く送り出す親の心情、と言ってもいいかも知れない。