2010年8月14日土曜日

不可知性について その6. 他人を宇宙人として見る

このところ連日テレビ(私の場合はNHK)で戦争関連の番組を放映しているが、戦争体験者がますます高齢化し、そのうち日本では戦争を誰も体験した人がない時代が来る、というのは大変なことだと思う。しかしそういう私も戦後の生まれなのだが。
ここ数日気になるのが、政治記者影山氏の自死のニュースをNHKが報道せずに終わってしまいそうなこと。(ネット的にはそうなっている。私もNHKでは見たことない。) 失敗学的には当たり前のことだ。つまりあらゆる組織が、それぞれやましい側面を持ち、それを糊塗しようとするし、公明正大な組織は実際には存在しえないわけだが、それにしてもやはりがっかり。毎日NHKを見るという習慣を支えるためには、「今のNHKはこれまでと違う」というあまり根拠のない考えが必要なのだが、ますます根拠がないことを思い知らされてしまう。
さて不可知性と対人関係との関連ということであった。私は「他人は宇宙人だ」と思うようになってからずっと対人関係が良好になっている。宇宙人だと思うから、あまりに非常識だったり、予測と違う行動をとっても、特に腹が立たない。というより常識、非常識ということがそもそもわからなくなってきた。腹が立たないのは、そのせいもあるかもしれない。対人関係を悪くする最大唯一の秘訣。それは相手を責めることである。そして相手を責める最大唯一の理由は、相手が自分と同じような心の働きをすることを想定し、余計な期待を持つことである。

先日紹介したタケシのエッセイ(北野武 ニッポンの問題点を語る(上))「電車の中の化粧なんて、酔っぱらいの立ち小便と同じ」というのが面白かった。これなどは、拍手喝采を送りたいところだ。こればかりはなぜか腹が立って仕様がないわけだが、いざ「電車の中で化粧をすることって、本当に非常識なのか?」と問い始めると、本当にわからなくなる。すると結局「他人に迷惑をかけていないならマアいっか?」となる。もちろん心情的には「人前での化粧なんて、ありえない。何考えてんだ、こいつ」と思っている。でも他の人の脳の中で起きていることは基本的にはわからない。だって宇宙人だからだ、と考えることで我慢できる。

しかし他人を宇宙人としてみる、ということにはもちろん副作用がある。それは他人をある意味で見放して、精神的に孤立することを意味する。誰かと精神的に結びつく、ということは、宇宙人として見られないということ、相手の反応に喜んだり落胆したりすることだ。でも「他人を宇宙人と見すぎないようにしなくてはならない。」という警告は必要ない。すべての他人を宇宙人として見れないのが、そもそも人間だからだ。