2010年8月13日金曜日

不可知性について その5  不可知性と対人関係

思わせぶりの台風も温帯低気圧になって太平洋に去ってしまった。と、まるで台風を擬人化しているが、考えてみれば、北米を襲うハリケーンなどは、ひとつひとつにファーストネームがついている。
ハリケーン・アンドリューとか、ハリケーン・カトリーナとか。昔の人は「くそ、アンドリューのせいで、今年のとうもろこしの収穫は台無しだ!」などと言っていたのかもしれない。台風も同じようにしたりして。するとおかしな話になる。

ニュースで「思わせぶりに日本を撫で回すようにしていたアケミがとうとう行ってしまった。」
天気の話だかなんだかわからない。

たけしの話題から、不可知に戻る。

「交通事故起こして以来、残り時間なんて全然考えないね。今日、もし余命1カ月と言われても、そのまま仕事やって生きる自信あるね。若いころからなぜか、63歳くらいでくたばるかと思ってて、その年になったけど、ここんとこ仕事の調子がいいんで、下手するとあと10年くらい生きちゃうかな」

たけしはこれを例の交通事故から起きた人生観の変化と説明しているが、実際に死に近い体験により、死への恐怖が軽減し、それが異なる人生観へと導いたという例は多い。思うに死への恐怖は、それが強い人々がより長く生きながらえてきたという事実があるのだろう。適者生存というわけだ。死を恐れる集団と、死をも恐れぬ向こう見ずの集団を考えた場合、10年後の生存率には明らかな差がでてくるはずだ。それはある種の、死を恐れるという性質は、脳に組み込まれたプログラムであり、臨死体験は、それを外してしまうのかもしれない。そしてそれによりたけしも自分にとってそれまで大いなる未知道であり、不可知であったものに備えることに汲々としなくなったのだろう。不可知(の究極である死)を垣間見た → 不可知であることの恐怖が軽減した → 人生(いい意味で?)ドーデモよくなった、ということか。

実は不可知性を受け入れることで一番大きな意味を持つと思うのは、対人関係だが、これは明日。(続く)