2010年8月19日木曜日

不可知性 その11 不可知性を意識すると、人の悪口は言えても、批判ができなくなる

他人は不可知であるということを前提とするということは、他人を批判することを難しくする。批判したくてもその根拠がなくなってしまうからだ。仕方がないから悪口を言うしかなくなる。

なぜ批判する根拠がなくなるのか。それは批判しようにも、その人にはその人の行動や言動の根拠があり、基本的には自分の理解の範囲を超えていることが明白だからだ。私たちは、他人について「普通は~そんなこと考えないだろう?」とか「どうしてもっとちゃんとやらないんだ!」というレベルの批判をする時、相手を「対象」つまり内的対象としてみている。つまりはその人について心の中で想像しているイメージのことだ。(ここら辺の話は、「不可知性 その9 」で書いた内容だ。)「どうしてもっとちゃんとやらないんだ!」という批判も、相手がある程度までは自分と同じような心の働きをし、自分と同じような感情を持つという前提で言っている。しかし現実の他人は「対象」ではないから、はるかに想像を超えている。あるところからは自分のロジックは通じないものと見てよい。つまり一部は宇宙人なわけで、すると批判のしようがない。

他方では悪口ならいくらでもいえる。悪口とは人を傷つけ、貶めることでいい気持ちになることで、そうすることの根拠などない。ただし人を貶め、哂えば必ず自分に返ってきてしまうのだが。(人を哂わば穴二つ??)

悪口のプロトタイプは、「アイツは生意気だ。●●のくせに。」というようなものである。この●●には、人間社会の中でマイノリティーとみなされる属性が何でも入る。よくあるのは、●●人、●●人種、あるいはその人の身体的、精神的特徴であり、ここに何か具体的なことを入れたら、このブログは成り立たない。というのも●●に属する人が実際にこの世にいて、その人が読んだら不快に感じるからだ。そこで●●に属す人がいないようなものを考えればいい。例えば「火星人」を代入しよう。「あのヤロー生意気だ。火星人のくせにCDデビューするなんて。」「火星人の癖に、参議院選出馬だって? 何様だと思ってんだ?」と、これらは立派な悪口だ。

さて、読者は、「人の批判はできないが、悪口は言える」というのはどういうわけだ、とおっしゃるかもしれない。しかし悪口とは、言っている本人が悪い(というより誤謬に基づいている)ことはそもそも前提なのであり、たしなめられれば「ごめんなさい」というしかないものである。私たちは悪口を言わずには生きていられないのだろうか。恐らく。他人を批判する根拠がなければないほど、他人を憎しみ、貶めたいという不条理な欲求を満たす方便がなくなるからだ。他人が不可知であると認めることは、決して楽ではないのである。