2010年7月18日日曜日

おたくについて 7. 続き

今日は大変な暑さだった。梅雨が終われば終わったで先が思いやられそうだ・・・・。

昨日の話の続きである。私たちが他人と関係するということは、そこに「相手を利する」部分を自然と含むものだ。相手が喜ぶ言葉をかけ、相手を心地よくする。何も特別なことではない。相手の痛みや心地よさは、少なくともある程度は自然に感じ取ることが出来る。私たちはこれを自然にやっているのだ。エレベーターに駆け込んでくる人を見たら、「開」をしばらくの間押してあげる。両手に荷物を抱えている人を見たら、かわりに扉を開けてあげる、などである。この部分が欠如している人間関係はきつい。そしてそれは治療者患者関係でも同じなのだ。
昔アメリカで私のあるASPの患者さん(男性、20歳代)が父親をなくした。私が関係していた病院でなくなったために、私もある程度事情を知っていたし、そのASPさんの反応を心配した。しかし母親と一緒に外来に現れた彼は、むしろ父親の死をどのように感じたらいいのかに当惑していた。「普通こういうときは悲しい、というのはわかるんです。ただ・・・・」と彼は言った。彼は特別父親と関係が悪いというわけでもなかった。よく一緒に趣味のカードの蒐集をやっていた。父親を亡くして、恨みが晴れた、うれしかったという事情はなかったはずである。しかし特別の悲しさもなかった。というより実感が持てずにいた。彼に親を亡くしたことによるショックを気遣う必要がなさそうだということを知ってホッとはしたが、彼の感情の欠如が印象的だった。
もちろんこれはアスペルガー障害一般に当てはまるとは言わない。肉親や友人をなくして深刻な悲嘆にかられる人も多い。しかし「心の理論」の希薄さが、思いやりの希薄さに直結しているようなケースでは、そのようなASPとの生活に深刻な寂しさやむなしさを体験する人が多い。
私がかかわっているASPの患者さんのごく一部に、残念ながらこれが当てはまる。私は常に何か利用されている、という感じを持ってしまう。そうだとすれば、彼らにとってもかなり不幸な話といえるだろう。