2010年7月4日日曜日

快楽の条件4 揺り戻しはかならずある

大阪から戻った。(っていうか日帰りだった。)千頭先生、大変お世話になりました。(自分の知らないところに自分を知って理解してくれる人の存在はとても嬉しい。本を書く事の大きなメリットである。私は金銭欲、名誉欲はおそらく人並み以下だが、製本(広い意味での)欲だけは見苦しいほどある。そこにはモノづくりの面白さも加わる。小学生の低学年から、夏休みの課題だけはほめられていた。毎夏意表をつく制作をして、それが9月の登校日に陳列されてクラスメートに受けることを喜んでいた。)

帰宅して早速テレビを付けてワールドカップのアルゼンチンードイツ戦を見ていると、アルゼンチンの意外なほどの大敗。メッシ無得点。いろいろな番狂わせのあるワールドカップである。そういえば岡田監督ほどワールドカップの前後で毀誉褒貶があった人もいないのではないか?これまでは監督としての能力が疑問視されていたにもかかわらず、ワールドカップで一勝すると、急に雰囲気が変わってきた。今ではもちろんかなり世論は好意的である。年齢も名前も似ている私としては、自然と彼の体験をより身近に感じるが、そこで思うのは、「私だったらこんな体験はまっぴらだ」である。

私にとってサッカーはかなり蓋然性の高いスポーツだが、たまたまホンダのシュートが上手くゴールの枠に入り(というか、たまたま彼のところにボールが飛んでいき)、試合に勝利すると「さすが本田」と言われる代わり、ボストに嫌われてそれ以外だったら申し分のないシュートが得点に結びつかないと、事実上忘れ去られてしまう。今回たまたま幸運が何度か重なり、岡田ジャパンはすごい、ということになった。私は岡田さんが本当はダメだ、と言っているのではない。それ以前にワールドカップの前の国際試合に負け続けたことも、どちらかと言えば不運であったということだ。だから岡田さんは、ワールドカップ以前は実際いかに評価され、以後は実際より高く評価されているということだろう。そしてその噂が彼の自尊感情を決定的に揺り動かしているであろうという理不尽さが我慢出来ない。だから「私だったらこんな体験はまっぴらだ」となる。もちろん岡田さんの人生を追体験すれば、ワールドカップのあとの高揚感も味わえることになり、その結果彼を「羨ましい」と感じるかも知れない。私も彼の今の状況を羨ましく感じていないわけではないが、無理やり喜びを味わされるのもまた迷惑なのだ。なぜなら喜びのあとには必ず「揺り戻し」が来る。かならず、である。これがたまらなく嫌である。

おそらく岡田さんはある程度達観していて、ワールドカップ以前にはさほど落ち込むこともなく、それ以後も過剰に舞い上がることなく、日々を過ごしているであろう。しかし一般人はかなり違うはずだ。その日上司になんと言われるか、その日自分の責任をもっている人や物がどのようなパフォーマンスを披露するか、に一喜一憂して毎日を送っているはずである。そしてこの種の感情の大波にさらされることなく毎日を過ごすためにしなくてはならないのは、ほとんど決まっていることになる。「その時その時の毀誉褒貶とは遠く離れたところに自己イメージを温存せよ。」そのためには新聞や雑誌をことさら見ないということすら必要かもしれない。ことによったらインターネットもいけない。何しろニュースのたぐいのサイトに行ったら、たちまち見出しに自分のことが描いてあるのだから。でもそうするしかない。確か麻生太郎氏だったか、あの国民からさんざん揶揄された数カ月間、彼は自分に対する報道を目にすることを避けたと言うが、この途方も無い不自然で防衛的な行動も必要になるのかも知れない。

では快の揺り戻しとは何か。いつか書いたことだが、快不快は一種のバランスシート上の数値のようなものだ。絵画刻まれた後には、急速に、あるいはゆっくりとそれが減衰し、あるいは揺り戻される。それは基本的には深い、苦痛体験だ。快の体験を瞬間瞬間の心地良さの時間積分の値だとしたら、その量が今度は不快体験の時間軸上の積分値が釣り合うまで揺り戻される。そしてこれは本人によって否応なしに行われる。唯一の例外は、快の体験の後に時間の流れが止まること、すなわち死が訪れることであろう。しかしそれが生じることで、苦痛の揺り戻しによる快が味わえないということにもなりうる。(続く)。