2010年6月20日日曜日

(承前)
私にはやはりどうしても、●●先生が「人を斬る」ことを意図的になさっていたという気がする。それは先生が併せ持っていたきわめて愛他的で優しい側面と同居しているかのようなのだ。
私がここまで書いて思うことは、人は互いの持っている地位、権力、名声などにいかに影響を受けるか、そしていかに容易に理想化や脱価値化を起こすか、である。私はここで●●先生の実像に近づこうとしていて、結局先生も他の誰とも代わらない人間的な感情を持ち、気高い面と理不尽な面を併せ持った存在であった、ということを示そうとしているのだが、それは●●先生が普通の人であったならばまったく意味がないことである。彼が高名な先生であり、ほっておけばいくらでも理想化の対象となるからこそ、そしてその彼を普通の人間として描くことに意味も出てくるだろう。普通の人の普通の実像を描いてもなんの意味もないのだ。
●●先生が非常に巧みに「斬って」いらしたことがわかる。それは周囲の人に畏怖の感情を与え、彼の一挙手一投足は余計に注目を集め、その後の彼からの慰撫の言葉もそれだけ有り難いものになった。彼は厳しさと優しさを備えた優れた先達として讃えられることになる。でも何のために「斬る」のだろう?何の権利があって、というべきだろうか?それともそれを問うこと自体が無理な話だろうか?
今日ある研究会で、分析家サンドール・フェレンチについて講義に司会として参加した。そこでフェレンチが彼の「臨床日記」で師匠フロイトに対する様々な不満や非難の言葉を綴っているという話になり、そこからディスカッションになった。特にフェレンチのフロイトに対する非難は正当化されるべきかという点について、私は次のように述べた。「フェレンチがあまりにフロイトに過剰な期待を寄せたために、フロイトに対する敵意を持つことになったのであり、それはフロイトにとっては理不尽なことではないか?」私は同じことが●●先生についても言えるのだと思う。人間としての先生に近づくことは、その様々な側面について受け入れることなのだろうと思う。(終り)