2010年6月5日土曜日

もうまとめにかかっている?

これまでの復習をしよう。<実は最後の「まとめ」の部分をこうやって執筆してしまおうとしている。原稿用紙20枚程度ということなので、もう量的にはきつくなったので、そろそろまとめなくてはならない。しかしたった一週間ブログで適当に書いただけである。こんなもんでいいのだろうか? まあいいか。>
BPDの医原性は重要なテーマである。ちょうど一昔前、「ヒステリー」という診断が侮蔑的な意味で用いられたように、現在ではBPDが治療者の間で「厄介者」のように扱われる傾向にある。「あの人はボーダーだよね」というと、たいてい極端な感情表現や行動化、自傷行為のために扱いが難しいケースをさすのである。すなわち治療者の側の主観が非常に大きくBPDの診断や理解には影響を与えているということである。そしてそれはBPDを人工的に作ってしまったり、その症状を悪化させたりという問題を生んでいたというわけである。
さてこのBPDの医原性の問題について、私は3つに分けて論じたことになる。一つ目は、患者の側の振る舞いを、操作的と決め付け、だからボーダーだと決めつけてしまう場合。もう一つはBPDの治療者が、その治療技法ゆえにBPDとしての傾向を引き出す場合。そして最後に、誤診により解離性障害などからBPDが生まれてしまう場合であった。
でもこうやってまとめてみると、結局BPDの医原性とは、「その概念があること」そのもの、とも言えるかもしれない。半世紀前までは、BPDなどに一般の臨床家は関心を払わなかったから、当然そんな診断もつけなかった。(概念そのものは、1950年代にはすでにあった。)しかしこの概念が広く知られるようになり、それが疾患概念として興味深く、また実際のケースがセンセーショナルな場合が少なくないことで、「この人もそうかもしれない、あの人も・・・・・」と臨床家たちがケースを探し始めた。するとちょっと感情表現が大きかったり、治療者側に注文をつけたり、という人たちはみなBPDに見えるようになったというのが現状であろう。
しかし同時に私はまったく別のことも考えている。それはいったんBPDの病理性を除外するとしたら、BPD的な振る舞いは、私たち人間の本性に存在するのだ、と。最初に述べた「ボーダーライン反応」とは人が「自分は取るに足らない存在ではないか? 生きていてもしょうがないのではないか?」という恐ろしい、普段は否認している考えに一瞬思い至り、次の瞬間にそれを暴力的に振り払う反応であり、その考えとは実はおそらくすべての私たちが心のどこかに抱えている暗闇であろう、ということだ。BPDの医原性を考えることが、「BPDは作られてしまう」事への警鐘だとすれば、それを鳴らすことは私たちがみなボーダーライン的な心性を可能性として秘めていることへの防衛や否認の試みとも読み取れるのである。<しかしこんな突き放したようなまとめは、果たしてアリなのだろうか?>