2010年5月28日金曜日

私の息子のことを書きたくなった。私は自慢話は嫌いであるが、彼のことを「こいつは絶対すごい!自分は全く負けてる!」と思った、ある体験を書いてみたい。だが・・・・あしたにしよう。
(承前)私がベック先生の話に疑問を持つからといって、彼の人間としての成熟を疑う、という類の話ではない。私はもちろんかの高名なベック先生を個人的に知るはずもないし、彼の人間性をあれこれ論じることはできない。ただ彼が非常に成熟した人間であっても、彼が何が起きても泰然自若としているはずはないと考えるのだ。日常的な失望や苛立ち、あるいは満足や高揚感を体験するのはむしろ人間として当然であり、それはまた、その人のPESが正常に機能しているということを意味しているのだ。だからベック先生は車の渋滞のせいで予定していた講演会に穴をあけるという可能性を予測した際に、ただならない苦痛を味わったはずである。その彼を見ていて、すこしも動じていないと報告した弟子は、おそらく師匠の心の動きを読めていなかったか、あるいはベック先生が実にうまく同様を押し隠す事が出来ていたからだろう。(そしてそれはそれとしてひとつの能力として高く評価できることになるだろう。)
そもそもPESは人間の行動がより合理的に行われることを助けるためのものであり、それは最終的に実際に体験される快を最大限にし、苦痛を最小限にするためのものといえる。フロイトの言った現実原則と、この点は少しも変わらない。そしてベック先生は最終的に講演会場に時間に遅れることなく到着し、自分を、そして聴衆を満足させるべく講演を行うことを強く望んでいたはずだ。彼が飛行機の離陸時間に十分間に合うようにタクシーに乗り込んだ時は、その行動が地方での最終的な講演の成功を保証するための一つのステップとしての役目を果たすことを十分予見できたであろう。タクシーが十分な余裕を持って出発ロビーの車寄せに止まることを思い描き、そこに満足を見出していたはずだ。つまりかれのPESは刻々とステップごとにそれを疑似体験し、それを無事クリアーしたことの喜びを先取りしたはずだ。人が理性的に、計画的に、そして自分も周囲もハッピーになれるように行動する、というのはそういうことだ。そしてそれは時にはPESが計算違いを起こしたことのつけを味わい、ボヤき、恨み言をいうということも意味する。理想化していた人の日常を垣間見て、そこに全く普通の人と変わらない日常的な苦悩の存在を知って驚板というのは、よくある話である。
ただベックだったら、ということはある。彼の心の揺れ幅はおそらくあまり大きくない。もちろん講演は成功させたいだろうし、その意欲や情熱はある。でも「たかが講演」であることもわかっている。That’s not the end of the world なのである。そしてそれを私たち凡人はなかなかわからない。講演の成功を望んでいた自分が、現地にさえ時間通りにつけない。それは大きな失望をうむ。しかし時にはそんなこともあるだろうし、その場合にはジタばたしてもしょうがない。そもそも飛行機に首尾よく乗り込んだって、到着地が濃霧や積雪で引き返してこざるをえないことだってあるんだ、という開き直り、つまりはPESが個別的な疑似体験によりえられた快や苦痛をすぐに相対化するような人生観を持っていると、それが再びPESにかけられることで、「大したことじゃないよ」ということになる。そこがPESの成熟度ということなのだ。<全くの独りよがりの話にきこえるだろう。>