2010年5月31日月曜日

(承前)
ところでBPDと医原性iatrogenicity というテーマは、文献的にはどうなっているのか?少なくとも英語の文献ではこのテーマは散見される。たとえばBPDの研究で名高いGunderson は「最近のBPDの治療は、かつての精神分析的な治療の含む問題を回避する方向に進んでいる」としている(Gunderson, J G. Links, PS.: Borderline Personality Disorder : A Clinical Guide. 2nd ed. Amer Psychiatric Pub Inc, 2008.) 。本来精神分析とは距離を置いていたGundersonだから、このような思い切ったことを言えるのであろうが、Fonagy、Bateman 両先生といった、英国の非クライン派の精神分析を代表する(?)人々もまた同様のことを主張している。あたかも精神分析的な考えがBPDという亡霊を作り出したかのようだ。Fonagyたちあの分厚い「メンタライゼーション」のテキストにも書いてある、ということは、かなり根本的な問題が既に日本国外では提起されているということか。(メンタライゼーションと境界パーソナリティ障害―MBTが拓く精神分析的精神療法の新たな展開. 岩崎学術出版社)しかし、彼らが言っていることを確かめるために、私も少し考えを整理しておきたい。どこまで近いのだろうか?
BPDの医原性というテーマを与えられて(つまり依頼原稿、ということである。別に隠すことでもないか。)私が書けると思って引き受けたのは(っていうか、断ったことはあるのかい?)「ボーダーライン反応」、という現象ないしは概念との関連で、である。この概念は、「結局人間みな人間関係のありようによっては、ボーダーライン的になるものである」、という主張を含んでいるが、この「人間関係のありよう」には「患者治療者関係も含まれるということである。「医師という仕事は少し経験を積むと、診察室の癖が身について、相手を少々見下す姿勢になりやすい」と笠原嘉先生も喝破しておられる(精神科における予診・初診・初期治療 星和書店 2007、P122)が、それは患者に向かう心理士や看護等の治療者一般についても程度の差こそあれいえることである。そしてその場合は患者の側からのすこしの抵抗や挑戦も、治療者の側のプライドの傷つきの感覚や怒りの感情をさそう。そして治療者が二次的に患者の側に加える可能性のある強制や治療を撤退するという脅しは、容易に患者の側に今度は本当の怒りの感情や抵抗の姿勢を生む。それを見て治療者は患者がBPDであることを確信してしまう。このようにして生まれたBPDはまさに医原性のものと言えるだろう。
臨床場面でよく聞く言葉に、操作的 manipulative というものがある。主治医が「あの患者は精神科のナースに私の悪口を言って、私を悪者にしようとしている。操作的な態度だ。」という風に使われる。そして同じ文脈でやはりよく聞くのが、スプリッティング splitting である。同じ例で、「患者は治療チームを自分の敵と味方にスプリットしようとしている」という風に使う。しかしこれらの言葉ほど濫用されるものはない。私はよく学生やバイジーさんに「操作される(スプリットされる)側にも問題がある」と言う。治療者は患者さんに感情的に動かされるような気がしたときに、あの患者は操作しようとしている、だからボーダー的だ、という傾向にある。(実は私も結構言っているような気がする。このような心性は、日本の治療場面であろうとアメリカであろうと変わらない気がする。普遍的なテーマなのだ。
このような概念を多用する治療者には、操作を許しているのは、結局は治療者である自分たち自身である、という視点が欠けている。治療者のほうがどっしりしていれば、「動かされるつもりがない」のであれば、この人はボーダーだろうか、という発想もそれだけ少なくなるだろう。大体小さい子供が「これ買ってくれないと、もうパパと口なんかきかないからね。」(別にママでもいいが・・・)と言ったからといって、「この子はすでに5歳で、ボーダーラインの素質がある」などとは思わないだろう。それは親がそのような子供の操作をあまり問題にする必要がない分だけ、余裕を持って対応できるからである。
(続く)