2010年6月1日火曜日

私はかねてから、正統派の精神分析的な教育を受けた治療者は、結果的に医原性のBPDの生産に加担してしまう傾向があると見ている。この点は、Gunderson や Fonagy の主張に通じている。(まだ彼らの説を詳しくは検討していないが、自分と彼らを同格にするなんて、なんと罪深いのだろう!)そしてそこでしばしば問題となるのが、治療構造の概念である。
精神分析にはいくつかの聖域があるようだ。今ようやく疑問符が投げかけ始められているのが、転移の解釈の至上性であろう。患者の心の無意識的なプロセスの解釈、特に転移の解釈こそが治療的な意味を持つ、という考えだ。もちろん治療的なのはそれに限ったことではない。そのことについてはあまり声高に主張はされなくなってきているように思う。それに比べてその聖域としての扱われ方がより広範であり、その批判をすることが未だに難しいのが、治療構造に関するそれである。「治療構造は場合によっては非治療的になる」という主張は、おそらくどのような進歩的な分析家にとっても容易には受け入れがたいであろう。せいぜい「治療構造が非治療的に働くなら、その治療構造自体がきちんとしたものでないからだ。当たり前ではないか?」でけりがついてしまう可能性がある。もちろん治療構造自体があまりにrigid な場合には、それが非治療的となりうる、という主張を受け入れる治療者は多いであろう。しかしそれよりは治療構造自体があいまいで、しっかり定義されていなかったり、境界が不鮮明だったりすることの弊害に関する主張に比べれば、ほとんど聞かれないのが現状であろう。
治療構造論をライフワークの一つとした故・小此木啓吾先生も生前いってらした。「僕は、治療構造をちゃんと守らないところがあるから、あえてあのような理論を作り、自らを戒めたのだ。」ここに見られるのは、やはり治療構造はきちんと決め、それを順守することが正しい、という議論であろう。しかしこの治療構造の重要さを強調する分だけ、治療構造に「乗ってこない」患者を問題視し、そこに病理性を見出す傾向も強くなる。
治療構造を重視する私達にとって(ついでに自分もその仲間に入れてしまった)一番抵抗があるのは、「例外を設けること」である。あるクライエントが通常の定期的な面接の枠組み以外に現われ、面談を希望する。何か特別の事情があったのであろう。分析的なオリエンテーションを重視する治療者はその意外性、例外性を気にするあまり、その面談を拒否する可能性がある。いくらその治療者にとって、その時に例外的なセッションを提供する時間的な余裕があり、また料金を課することについてクライエントが納得しているとしてもそれを行うことは少ないであろう。このことは精神分析の「身内」である私にはよくわかることだが、精神分析になじみがないクライエントにとってはこのリクエストを拒絶される理由が不明なことが多い。例えばカイロプラクティクスやマッサージに週に一度通っている人を考えよう。彼がジョッギングをして腰を痛めたために、次のセッションまでに一度余計な時間をリクエストしたからといって、時間的に余裕のある治療者がそれを拒絶するすることがあるだろうか?何か特別な理由があるからに違いない。
同じような感覚で余分なセッションをリクエストして断られたクライエントが、分析的な治療者にその理由を尋ねても、たいていは明確な答えが得られないだろう。もちろん「現実にあなたに会う時間的な余裕がないのです。これからずっと午後は面談のスケジュールが詰まっていますから。」というような明確な理由が実際にあったとしたら、それは了解可能だ。しかし治療者が「いや、構造が決められていますから、それを破るのは・・・・・」とだけ伝えて、あとは歯切れの悪い断り方をするとしたら、クライエントの方もますます疑問がわいてきて、さらに明確な答えを期待するかもしれない。その時治療者が「私達にとって治療構造を守ることは非常に重要なのです。治療構造が私たちを守ってもくれるのです…・」といっても何の説明にもなっていない。
しかしその時点で、治療者が本当の理由、例えば「あなたがこうして例外的なセッションをリクエストして、私がそれを受け入れるということで、徐々に私に対する依存欲求が高まり、構造自体が壊されてしまう恐れがあるからです…」という、ある意味では「本当の理由」をどうどうと言えるだけの治療者もあまりいない。それは言っている治療者にもあまり自信が持てない内容であるし、患者さんに「えっそんな事をお考えなんですか?今回だけのつもりですけれど。それに私にはこれ以上セッションを増やすお金もないし・・・・」と言われては身も蓋もないことになることを、治療者自身が知っているのである。(thank God!)他方のクライエントにしてみれば、「今回だけのつもりですけれど」という言葉を本心からいっている可能性がある。それは一回腰をひねったからといって、今後カイロプラクティクスのセッションに定期的に週2回通うつもりはないのと一緒である。こちらの方が自然な発想なのだ。
もちろんこうは言っても治療構造を守るために慎重になる療法家の気持ちは私はよくわかるつもりでる。これらの点について特にナーバスになるべきクライエントさんは実際にいらっしゃるからだ。しかし療法家が同様のリクエストをするクライエントに対してことごとく同じような構えを持ってしまうとしたら問題である。その意図が分からずに気を悪くしたり、治療者とのラポールが逆に揺らいでしまうクライエントが出てもおかしくない。そしてこれが医原性のBPDの問題とも関係してくるのだ。(続く)