2025年12月9日火曜日

WDについて 推敲の推敲 2

 私にとってのワークディスカッション

 WDの歴史や日本における取り組みの現状についてこれ以上述べることが本稿の目的ではない。それについてはそれにふさわしい筆者の章を参照していただきたい。ここからは私が知り得たWDについて現時点で思いめぐらすことについて書いてみよう。

 私はWDを体験に根差した学習のプロセスに関するものと理解している。それはいわゆる実習に関わるものだ。学習に関しては、一方には座学と呼ばれるような、主として教科書や論文を読み、講義を受けることで、どちらかと言えば受動的に学ぶ方法がある。そして実習は実際の体験を通して座学を補う学習と理解できる。

 精神医学や臨床心理学の実習はまずは見学から始まる。それは実際に行われる心理面接の陪席をしたり、スタッフによるケースカンファレンスを見学するという形を取るだろう。そしてその参加者の報告に基づく事後学習としてWDの手法が活用されるであろう。
 また臨床について少しずつ馴染み深くなった時点で事例検討やケースカンファレンスに出席することになる。具体的にはある臨床事例が、複数の受講者に報告される。その事例は過去にどこかで提示されたものであったり、受講者の一人が実際に関わった例であったりする。そしてその報告の内容に基づき様々なディスカッションが行なわれる。それをどのような形でより意味のある学びの機会にするか、ということについてもWDの議論がかかわってくるのだ。
 私は精神科医や心理士としてのトレーニングで、そして学会や勉強会におけるケース検討の場で、これまでこのようなディスカッションを数限りなく経験してきた。特に事例検討のディスカッションに関しては沢山の思い出がある。事例検討では様々なドラマが展開することがある。時には胸おどり、時には深い疑問を抱かされることもある。
 たとえば学会や勉強会の形式で大掛かりな人数で行われた場合、年若い発表者が助言者に鋭い批判を浴びせられ、参加者のみならず司会者にまで助け舟を出してもらえずに、まさに火だるまのような状態になることもある。かなり昔の話ではあるが、私自身がその「火だるま」になったこともあった。

 発表者が集中砲火を浴びた場合、聴衆の一人としての反応は複雑である。特にその発表者の主張に一理も二理もあるように感じる時はその一方的なデイズカッションの流れをあまりに不条理に感じる事もある。思わず発表者に援護射撃をしようと思っていても、その場の雰囲気に押されて何も言えず、歯がゆい思いをしたこともある。

少し極端な場合には発表者はその経験を一種のトラウマのように感じ、またその時に特に歯に衣着せぬ意見を述べられた先生に対して恨みに近い思いを抱くこともある。しかし一方では,「若手はああやって鍛えられるのだ、自分だってその道を通ってきたのだ」というベテランの先生のコメントも聞こえて来たりすると「そういうものなのか…? でもこれって一種のハラスメントではないか!」と更に疑問を抱く体験もあった。そうして症例呈示は言わば「ハイリスクハイリターンで何が起きるかわからないもの」として自分の中ではその理想的なあり方についと考えることはペンデイングにしていた。しかしディスカッションが様々な意見を平等に反映したものであれば、このような不幸な事態も防げたはずである。そしてこの問題の検討の機会を与えてくれるのがこのWDの議論であるということが分かったのが私にとってはつい最近のことだったのである。