2025年9月10日水曜日

●甘え再考 3

 「受け身的対象愛」という概念は、そもそもフェレンチが「タラッサ」の中で言ったこととされる。もともとフロイトの「最初に自体愛、自己愛ありき」という理論に対するフェレンチの批判が初めにあった。そして最初にあるのは、受け身的な愛、すなわち「患者は愛することではなく、愛されることを願う」という形をとるという(中野、P.23)。バリントはそれを「私はいつも、何処でも、あらゆる形で、私の全身体を、全存在を愛して欲しい、それも一切の批評がましさなしに、私の側からまず家でも無理する必要なしに」と表現する(p24)。

私はこれは一つの大きな発見だと思う。何をいまさら、と言われそうだが、よくフェレンチもバリントも、そして土居先生もこれに気が付いたと思う。これは生物学的はその通りといえるだろう。これを愛着の問題と関連付けてみるならば、親の方には、子供を愛したい、面倒を見たいという自然な衝動がある。子供はそれの counterpart というわけだ。両方が存在することで、まるで磁石のN極とS極が一緒になるように二つはくっつく。

彼らのこの着想は一つにはフロイトが何が本質的か、何が初めに起きるのかを問うて、それが一種の自己愛、つまり対象を含まない心の動きだと言ったことであろう。それを聞いた弟子は、「本当にそうだろうか?」と思ったはずだ。子供を観察すると親や養育者をごく自然に求めるようだ。しかしなぜフェアバーンのように「対象希求性」と言わずに、「愛されることを願う」と考えたのだろう?あるいはどうして「愛すること」ではなく、「愛されること」なのか?人は「赤ん坊は愛するということをまだ知らないからだ」というかもしれない。しかしそれなら「愛されること」も知らないであろうし、それを最初から求めるというのはどうしてだろう?

この問題、結局考えていくと極めて難しいことに気が付く。ただ一つ私にとって確かなのは、生まれた時に母親が不在だったら、赤ん坊はおそらく「愛されたい」とはならないだろうということだ。身近に自分にまなざしを向ける母親がいることで、母親の「愛したい」と子供の「愛されたい」は同時に始動するのではないか。そして最初の母子一体の感覚、赤ん坊にしてみれば温かい母親の胸に抱かれて安心して乳を飲むという体験を得て、それを再現ないし継続したいと思うのだろう。そこから子供の側の「(ずっと、あるいはもっと)愛されたい」が始まるのではないか。つまり母親の存在なしには「甘え」は始動できないのだろう。なんだかよく分からなくなってきた。