北山理論についての読解が続いているが今一つ分からない。ただしこういうことなのか、という仮説はある。要するに甘えは、甘えさせる、依存させる上位の存在が必要になる。子供の側の甘えは、むしろ「依頼心」なのだ。北山は言う。「甘えの欲求は依存欲求として抽象化されることが多いが、これは他者の適応を誘発し、対象を与えられることを依頼するものであり、その意味で『依存心』というよりは『依頼心』という呼び方が適切であろう。」そしてまたいう。「乳児の内的現実や現像というものの実在を信じる私は、下にいる乳児は上位の母親に何かしてもらうことを依頼するのではなく、スーパーマンのように自力で飛び上がって母親に飛びつこうとしていると解釈することもできる」。(どちらも引用は北山 1999.p.99)
つまり甘えは結局他人頼みであり、受け身的で、上からの母親の存在を前提といている。あるいは母親を見ることで発動する、と言ってもいいか。そしてそれが子供の側からの自発的愛情を無視ないし矮小化しているのではないか、ということだ。
もっと決定的な文章があった。「大きいものの側が下へ適応するのではなく、小さいものの側が上位へと、空想や遊び、または魔法で到達できるという可能性は、乳幼児の魔術的な願いや非現実的な祈りの存在を考慮すれば、間違いなく存在するのである。」(p.99~100)
ただ甘えにより幼児が母親の膝によじ登る場合、母親からケアされて当然という気持ちがあり、それを疑わない分だけ非現実的、魔術的であり、その意味で受け身的だけとは言えないのではないか。(甘えることが出来ない人からは、「どうしてそんなない相手を信じられるの?と不思議に思われるだろう。)
「刷り込み」の現象からわかる通り、赤ん坊はケアされるニーズをそれこそ周囲の何にでも投影する傾向にあり、十分に積極的、という気がする。それに母親も母親で子供の存在に反応するというよりは、母性はそれ自体が子供の存在を前提として成り立つという意味では積極的であり、ここでの能動性―受動性という二極化は存在しないのではないか、というのが私の感想なのである。それは博愛におけるギブアンドテイクとは別の意味で「平等」だと思うのだが。