2025年1月30日木曜日

統合論と「解離能」 20

 まとめ

 解離は一つの心の機能であり、それは能力(「解離能」)であると同時に、機能不全を起こすことで生活上の支障ともなりうる。そして治療の目標を統合に置く「統合主義」は、解離を病理としてのみとらえ、その解消を目的としているとは言えないだろうか?

解離能を考える立場としては、解離の能力にある種の健全さや必然性、ないしは防衛手段としての意味を持つことになる。すると解離により生まれた交代人格についてもそれを病的なものとしてではなく、より自然なものとしてとらえるという方針が成り立る。すなわち交代人格は「パーツ」と捉えるのではなく、固有の人格として認め、遇するべきなのである。

本稿のも一つの論点は解離の治療者に技巧は必要なく、普通の、あるいはまっとうな心理療法でいいということであるが、それはこの第一の論点、すなわち統合が目標ではないということとも深く関係してくる。つまり統合を目指す場合にはある種の操作が必要になり、いわば教科書に掲げられるような手順が必要になる。いわばマニュアル的な治療プロセスが描かれることになるのだ。それが例えばポールセンのテキストになるのである。

それでは当たり前の、普通な治療とは何か。それはその日に出ている人格(「来談人格」)との一合一会を大切にし、その人格の抱えるトラウマを注意深く扱う。ただし常に背後の複数の人格に話しかけている意識を忘れず、また必要に応じて別人格と接触する用意があるべきである。それらとしては以下を挙げておこう。

① 「来談人格」とは別の人格が面接時に自然に出現した場合。