2024年7月16日火曜日

守秘義務について 2

 私達臨床家を最も悩ますのは、実はケース報告の件であろうと考える。それは仲間内での勉強会や学術集会、学会などで症例を検討し、また自らの臨床経験を症例を用いつつ論文化することは、私達にとってあまりになじみになっているからだ。おそらくそれなくして多くの私たちの活動は成り立たなくなるとも言えるであろう。精神療法に関するあらゆる学会活動はそのベースに臨床報告があり、その教育的な意味は極めて重要であることは疑いもないことである。  もちろん患者との臨床体験は一言も口外せずに黙々と臨床活動を続けることは不可能ではないであろう。そのような人は臨床報告の場に出席することもよしとしないであろう。自らのケースについて一切口外するべきでないという方針を守っている臨床家が、他の臨床家のケース報告には平気で出席することは明らかに矛盾しているからだ。  しかしそのような人でも研修の段階で多くの症例報告から学び、また実際に臨床を始める際にはスーパービジョンが欠かせなかったはずだ。何らかの形で第三者とケースについてディスカッションをして助言を得ることは、その人が一人前の臨床家となる上で必須であろう。そして患者の側も、自分の前に座るセラピストが、それまで自分の扱ったケースについて誰にも報告せず、したがって誰からの助言を得たことはないと知ったならば(もちろんそのようなことが現実に可能かどうかは別として)それはそれでとても不安ではないだろうか。  私も自分自身が分析を受けた経験から言えることであるが、自分との治療関係について私の分析家が、その治療の質の向上の為にどこかで話していることは恐らくあるであろうと思っていた。そして分析が始まるにあたって、敢えて私との治療内容は一切口外しないで欲しいと約束をして欲しいとも思わなかった。(と言うより分析家も一切そのような話はしなかった。何しろ1990年代、遠い昔のことである。)  もちろん私は分析家に私とのことについて誰にも話して欲しくないという気持ちは心のどこかにあったが、そのようなことはあまり考えないようにしていたという方がより正確であろう。ただ一つ避けて欲しいのは、私との治療の内容が、第三者から見て明らかに私のことであるという形で公表されては困るということである。たとえ私が読めば明らかに私のことだとわかるとしても、第三者には分からないという書き方をして欲しいと考えた。  このように考える私は、症例報告に関する同意を求めるということについてもとても微妙な気持ちを持つ。それが倫理的にベストのこととも思えないからだ。いくらケースが終了した場合でさえ、患者の側からは「それはやめて下さい」とは言いにくいものだ。つまり(元)患者にとってそれは自由な選択ではないのである。  ちょうど新薬の開発などで治験が必要になるように、人はある種の個人的な犠牲を払って社会全体の為に貢献するということは不可避であろう。