「心理療法は脳にどう作用するのか — 精神分析と自由エネルギー原理の共鳴 — 」は画期的な書であることは間違いない。本書はサイズとしても決して大きなものではなく、英語の原書はよみやすい大きな文字で組まれ、索引を入れても200頁である。しかしこの小さな書には著者ジェレミー・ホームズの主張のエッセンスが詰め込まれている。日本語版序文の執筆を仰せつかった私は、この筒井亮太氏による翻訳が出来上がるまでの間、時々原書を紐解いていたが、難解であろうという予想に反して、その内容はかなり平易に感じられた。そしてこうして訳文を手にしてさらにその内容を身近に感じている。
本書の原題は”The Brain has a mind of its own”(脳は独自の心を持つ)という少し不思議なものである。そして副題は”Attachment, Neurobiology, and the New Science of Psychotherapy”(愛着、神経生物学、そして精神療法の新しい科学)となっており、要するに愛着や神経科学の立場から新たな科学としての精神療法を提唱するというという壮大なスケールの企画のもとに書かれていることがわかる。その意味で「脳は独自の心を持つ」というタイトルは、脳科学時代に生きる私たちが私達自身の脳の自律性や独自性に敬意を払うべきであるという示唆を含んでいるようである。脳に素直に学べ、ということだろうか。心を扱う私たちが、答えを心そのものに求めるという時代は終わっているという主張の様にも読める。
本書はある一つの原理に従って心を読み解いている。そのシンプルさが本書を読みやすくしているのだろう。その原理とは「自由エネルギー原理」と呼ばれるもので、以下の様に言い表されるものである。「生命体は無秩序に抗い、感覚状態のエントロピーを最小化しなくてはならない」というものだ。人の心がエネルギーを最小化する方向に導かれている」(本書の原書”Glossary” より)。すなわち感覚入力の予測しにくさを最小化するように行動を最適化する」ということだ。
この原理の歴史は古く、フロイト時代が師と仰いだフォン・ヘルムホルツ、そしてフロイト自身、ベイズ説等の理論の系譜を有する。それを脳科学的な裏付けを伴った現代的な理論に仕立てたのがカール・フリストンの「自由エネルギーの原理」であり、著者ホームズはその理論に全面的に立脚したうえで、精神分析や精神療法の立場からより包括的な治療論を唱えたものである。
この「自由エネルギー原理」が本書のいわば「心柱」として貫かれていることで、読者はそして少しわかりにくい部分もこの原理に立ち戻るという術が与えられているのだ。ただしこの原理自身の信憑性を疑い出したら、話は別であろう。実際このヘルムホルツに端を発する「自由エネルギー原理」に関して、それがどの程度妥当性があるかは、おそらく証明のしようがないであろう。ホームズ自らが認めるように、「この原理は(中略)少数の先駆者を除けば、心理療法の世界にはほとんど影響を与えて」いないのである。
一般にある理論のよって立つ基本原則は、それが包括的でシンプルであるほど、実証性に乏しくなる。例えば「生命体の最終目的は子孫を残すことである」という命題は、進化論における「原理」としてはきわめて信憑性を感じさせるものの、証明のしようがないのだ。
ただしこれに関してはフリストンが周到に論証しているように、生命体の神経系統がこの原則に従って配線されていることが伺われる。また話をAIに及ぼすならば、ニューラルネットワークの働きそのものが、入力と出力の誤差を最小限にするように設計されることで驚くべき「知性」を発揮するようになっている。言語的なコミュニケーションもこれに従っている(いわゆる「関連性理論」)。そしてホームズがまさにそうしているように、この原理を出発点とした治療論はおそらく精神分析と脳科学の最新の流れとも言える対人関係神経生物学 interpersonal neurobiology とまさに同期しているかのようなのだ。
ちなみに私自身はこれまでフロイト流のエネルギー逓減の法則については若干懐疑的であった。「フロイトのリビドー論は時代遅れだ」という見方は、精神分析の世界でも多くの論者が共通して持っている認識である。そして現代的な精神分析は、フロイトの一者心理学的なエネルギー経済論を離れ、治療者との関係性を重視する立場に向かっている。そこでは愛着理論に導かれた治療者と患者の二者関係が重視されようになってきている。ところがその最先端に位置する「愛着を基本とした精神療法」を提唱しているのがほかならぬ著者ジェレミー・ホームズなのだ。そしてその彼がフロイトのエネルギー経済論に立ち戻ることを提唱しているのだ!
私はここに何か精神分析理論の持つ円環性のようなものを感じる。フロイトの中では既にすべてが繋がっていたのではないか、という空恐ろしさをも感じさせるのが本書なのだ。
私は訳者筒井亮太氏に心から感謝している。それは本書に序文を書くという役割を与えてくれたことで、私をホームズのこの理論に引き合わせてくれたからである。愛着、脳科学、精神分析、トラウマ。私の頭の中を常に巡っているこれらのテーマをこれほどまでに見事に結びつけたホームズの理論は、まさに私が読んで勉強すべき書であるにもかかわらず、基本的に勉強嫌いの私はこのような機会がなければこの先何年かまで本書に気がつかなかった可能性がある。その意味で良質の知を嗅ぎ取り導入する筒井亮太氏の能力には常々敬服せざるを得ない。