2024年2月7日水曜日

トラウマと心身問題 3

 Yips (局所性ジストニア)

 次はイップスである。おそらくこの病名を聞いたことがないという方もおられるかもしれない。というよりはイップスはそもそも医学用語とは言えない。イップスは「今まで問題なくできていた動作が突然もしくは徐々にできなくなるもの」であると定義されるものである。私はこれをMUSの例に含めるべきかかなり迷ったが、結局ここで論じることにした。このイップスもまた様々な分野で別々なものとして扱われるものの典型と言えるのである。
 イップスについては、ゴルフ、野球などのスポーツに関するもの(スポーツイップス)、弦楽器、管楽器などの演奏に関するもの(音楽イップス)が知られている。それまで半ば無意識的に、あるいは自動化されて行なっていた動作が出来なくなってしまうという症状を呈する。音楽でもスポーツでも、熟練したプロに発症することで知られているが、初心者にこの症状が起きないという保証はない。そして一旦これに取り付かれると職業生命を失いかねないほどの重大な影響を及ぼすため、これらの世界では非常に関心を寄せられている。音楽の世界でもスポーツでも、キャリアの絶頂で突然基本動作が出来なくなり、結局はその世界から去っていった同僚や先輩について耳にした人々は多いはずだ。
 このイップスは現在では様々な神経学的研究がなされ、focal dystonia として神経内科で扱われるようになってきているが、このイップスもまた心因性のものと「誤解」されてきたという歴史がある。そしてそれは現在進行形で起きていると言ってもいい。例えば「日本イップス協会」という組織のホームページから次の文章を引用してみる。

「イップス(イップス症状)は心の葛藤(意識、無意識)により、筋肉や神経細胞、脳細胞にまで影響を及ぼす心理的症状です。スポーツ(野球、ゴルフ、卓球、テニス、サッカー、ダーツ、楽器等)の集中すべき場面で、プレッシャーにより極度に緊張を生じ、無意識に筋肉の硬化を起こし、思い通りのパフォーマンスを発揮できない症状をいいます。」(日本イップス協会HPより。)

この心理的症状という表現が実は非常に誤解を呼ぶのである。またこの文章に出てくる「無意識」という表現もその誤解に拍車をかける可能性がある。つまりこのような表現がいかに「心の病」かということを強調しているのだ。
 ところが平孝臣先生はその著書(平孝臣(2021)「そのふるえ・イップス 心因性ではありません.法研 2021年」)の中で、イップスは心因性ではない、と以下のように明確に述べている。
 「イップスやふるえは長年「心の問題」とされてきましたが、現在では脳内の運動機能をつかさどる神経回路の機能的異常から起きるもので、脳の手術で劇的に改善することがわかってきました。」
私はイップスの専門家(一人はイップス協会の会長、もう一人は医学者)の意見がここまで違うことに非常に興味を覚えるのは私だけではないだろう。そしてやはりイップスはMUSのお仲間入りにすべきだと考える。というのもその振る舞いはまさに、MS/CFSやGMと一緒だからだ。




いわゆる転換性障害 CD

次はいよいよ転換性障害についてである。とはいえこの「転換性」という表現はもう過去のものとなりつつある。DSM-5(2013)とICD-11(2022)で名称変更が行われ、それぞれ DSM-5: 機能性神経学的症状症functional neurological symptom disorder, DSM-5)、解離性神経学的症状症 Dissociative neurological symptom disorder (ICD-11)と呼ばれるようになった。しかしこれらは随分長たらしいし、親しみを覚えないので、いまだに広く浸透していて聞きなれている転換性障害という言葉をここではあえて用いておこう。
 転換性障害の歴史はとても古い。この障害の特徴は、「運動、感覚、認知機能の正常な統合が不随意的に断絶することに伴う症状により特徴づけられる。臨床所見は、既知の神経系の疾患または他の医学的状態と合致しない。」とされる(🔴出典)。分かりやすく言えば、随意運動か五感および皮膚症状などの感覚の異常を示し、そこには不随意筋による運動や内臓感覚等は含まない。後者は自律神経の支配となり、これを含めだすと他の身体疾患が関わる可能性が生じてくるので、神経系に属する症状を示すものに限定してこの転換性障害と呼ばれるのだ。そうなると明らかな異常運動ないしは明白な感覚異常を示すが、その原因が明らかではないものとなり、これがかつてのヒステリーと呼ばれていたもののかなりの部分を占めることになるのだ。
  転換性障害を分類すると、網羅的になり、見るだけでも退屈なものになる。つまり視覚症状を伴うもの、聴覚症状を伴うもの、眩暈を伴うもの、その他の特定の感覚障害を伴うもの、非癲癇性痙攣を伴うもの、発話症状を伴うもの、麻痺または筋力低下を伴うもの、歩行障害の症状を伴うもの、運動障害の症状を伴うもの、認知症状を伴うもの、その他の特異的な症状を伴うもの、特定できない症状を伴うもの、などに分類される。定義からしてこうならざるを得ない。

 さてこの転換性障害についての理解の仕方が最近大幅に修正されつつある。それが先ほど述べた最新のDSMやICDの分類に反映されている。そしてそこで一番重要なのが、転換性障害の原因として、ストレスやいわゆる「心因(心理的要因)」を問わず、また疾病利得の有無も問題としないという事である。そしてその結果ここに分類される疾患を「転換性障害」と呼ぶことそのものが問題視されるようになった。なぜなら「転換性」という表現自体が「心因」というニュアンスを含んでいるからだ。それはどういう意味かを説明しよう。(以下  Stone (2010)の論文を参考にする。

Jon Stone (2010)Issues for DSM-5:Conversion Disorder  Am J Psychiatry 167:626-627.

ストーンは以下の様に述べる。
  まずフロイトの唱えたドイツ語の「転換 Konversion」(英語のconversion) は、心的葛藤が身体症状に転換されるという意味で用いられたが、それは仮説の一つに過ぎない(*)。フロイトは鬱積したリビドーが身体の方に移されることで身体症状が生まれるという意味で、この転換という言葉を使った。しかし実はそれ自体が証明されてるわけではなく、転換性障害に心理的な要因 psychological factors は存在しない場合もあるのだ。そして2013年 DSM-5では「転換性障害(機能性神経症状症)」となり、2022年 ICD-11では「解離性神経学的症状症」となった。さらに追加するならば、最近(2022年)に発表されたDSM-5のテキスト改訂版(DSM-TR)では「機能性神経症状症(転換性障害)」となった。つまり「機能性神経症状症がかっこから出て、「転換性の方が( )付きという立場に追いやられたのである。この様子ではDSM-6(?)では転換性障害の名が消え去るのはほぼ間違いないであろう。

* フロイトが実際に用いたのは以下の表現である。
「患者は、相容れない強力な表象を弱体化し、消し去るため、そこに「付着している(5) 興奮量全体すなわち情動をそこから奪い取る」(GW1: 63)。そしてその表象から切り離された興 奮量は別の利用へと回されるが、そこで興奮量の身体的なものへの「転換(Konversion)」が生 じると、ヒステリー症状が生まれるのである。
「ヒステリーが、和解しない表象を無害なものにすることは、興奮全量を身体的なものに置き換えた結果としてできる(防衛―神経精神病、1894)」