2024年2月6日火曜日

男性性のトラウマ性 1

  本章では男性性が持つトラウマ性について論じたい。私は男性だが、社会において男性がいかに他者に対してトラウマを与えているかということについて、同じ男性目線から何が言えるのかについて自分自身の考えを掘り下げてみたいのだ。

 まず問題意識としては、過去および現在の独裁者や小児性愛者や凶悪犯罪者およびサイコパスのほとんどが男性であるのはなぜか、という疑問がある。これほど明確な性差が見られる社会現象が他にあるだろうか。そしてそれについて男性自身による釈明は十分に行われているだろうか。これは大いに疑問だろう。
  実はこの問題について、私は一つの臨床上の問題を体験している。私は男性による性被害にあった女性の患者に対して、そこで何が起きていたかについて一緒に考えることがある。その際、男性の性のあり方についてどのように説明したらいいかについて常に悩むのである。説明の仕方によっては患者の心の傷を深めることさえあるのではないかと考える。
  ある20代の大学生の女性は、

     (中略)

「男性はそうやって豹変することがありますよ」という説明をしたところ「それを男性は一種の免罪符のように用いるのですね!」と言われて返す言葉がなかった。 私としては男性の有する性衝動の強さが性加害性に大きな影響を及ぼすというごく自然に思える発想が、それほど容易には社会に受け入れられないという事情があり、改めてこの問題の深刻さを知ったのである。

男性がなぜ男性の加害性について語らないのか?

  さてまずは男性の性愛性についてあまり男性が語らないのはなぜかについて、幾つかの可能性を考えたい。(ここで男性の持つ性愛性、という言い方をするが、本当は「男性の性性 male sexuality」とでも表現すべき問題である。しかし分かりにくくヤヤこしいので、ここではあまり呼び方にはこだわらないことにしよう。)それは男性自身が持つ恥や罪悪感のせいだろうか? そうかもしれない。そもそも男性の性愛性は恥に満ちていると感じる。それはどういうことか。
  男性は特に罪を犯さなくても、自らの性愛性を暴露されることで社会的信用を失うケースがきわめて多い。最近とある県の知事が女性との不倫の実態を、露骨なラインの文章と共に暴露されたという出来事があった。またある芸人は多目的トイレを用いて女性と性交渉をしたことが報じられて、芸人としての人生を中断したままになっている。この問題について男性が正面から扱うという事には様々な難しさが考えられる。
  いわゆるパラフィリア(小児性愛、窃視症、露出症、フェティシズムなど)が極端に男性に偏るという事実も関連している可能性があろう。パラフィリアはかつては昔倒錯 perversion と言われていたものだが、その差別的なニュアンスの為にパラフィリアという表現が1980年のDSM-Ⅲから用いられている。英語で「He is a pervert!」というと、「あいつは変質者だ!」というかなり否定的で差別的な意味合いが込められるのだ。
 このパラフィリアの問題が深刻だと私が思うのは、最近あれほど叫ばれている性の多様性に、このパラフィリアはカウントされないからである。もちろんパラフィリアの中にはそれを行動に移すことが明らかに加害性を持つものがある。例えばそれは窃視症であり露出症である。それが性的な多様性に含まれないことは十分に理解が出来る。しかし例えばフェティシズムの中でも無生命のものに恋する人たち(いわゆる対物性愛 object sexuality, objectophilia)が差別的な扱いを受けるとしたら、それに十分な根拠はないのではないか。